雨宮智彦のブログ 2 宇宙・人間・古代・日記 

浜松市の1市民として、宇宙・古代・哲学から人間までを調べ考えるブログです。2020年10月より第Ⅱ期を始めました。

雨宮日記 4月11日(日) 引佐町の竜ケ岩洞(りゅうがしどう)

2010年04月11日 22時45分23秒 | 雨宮日誌
雨宮日記 4月11日(日) 引佐町の竜ケ岩洞(りゅうがしどう)

 定年退職して、しばらく時間のある(お金はない)妻のN子さんとたどる地域発見の旅です。
 今日は、車でわが家を出発して約30分くらい、浜松市北区の引佐町へ来ました。(「遠州古代史」で紹介する部分はカットしますので。)

 天白岩座遺跡ー龍湛寺ー井伊家発祥の井戸、はそちらに回して、いきなり竜ケ岩洞(りゅうがしどう)へ来ました。

 竜ケ岩洞(りゅうがいわどう)なのに、なんで「りゅうがしどう」なんだと思うでしょうが、元々、竜ケ岩洞は,標高359.1mの「竜ケ岩(りゅうがし)山」の中の石灰岩を雨水が溶かしてつくられた鍾乳洞で、山の名前が「りゅうがし」なので、仕方ありません。

 回りが緑の山の引佐盆地を車でドライブして、だんだんと里山の感じの家や畑が点在する中に入っていき、だんだんと登っていくと、突然、回りに売店や駐車場がいっぱいあるところに出ました。
 車を誘導するおじさんたちが何人もいて、無料駐車場のひとつに入れました。

 観光地化しているので、マイカーの家族連れも多くて、豊橋・三河ナンバーも多いです。

 ちょうどお昼だったので、N子さんと2人で(久しぶりだね、2人でお弁当を持って、」何年ぶりだろ)お昼を食べるベンチを探しました。 
 ベンチでN子さんの手で握ったおにぎりを食べながら(えっと、おかかと昆布の2種類でした)、桜の木がたくさんあって、桜のピンクと白の花びらが、風でいっぱい舞い落ちて、なんだか、すごく幸せな気分になりました。
 
 お腹をいっぱいにして、戦闘準備終わり!
 アドレナリンを発生させて、地底探検に向かいました。

 大人1人650円の入場券を買って、洞窟へ。

 この竜ケ岩洞は、全長1000m、歩ける部分だけでも400m、古生代の2億5千年前の石灰岩を雨水が長年かけて洞窟をうがったのを歩きます。

 むかし子どもの頃に、親といっしょに旅して入った、山口県の秋芳洞ほど、天井など大規模ではないけど、地底の驚異、楽しみました。

 入り口から折り返し地点まで、だんだん上へ登りながら、たぶん200m、折り返し地点から出口まで,少しづつ下りながら、たぶん200m、すごく「地底の異界」を楽しめた時間でした。

 出口に設置された、無料の,日本で初めての「洞窟資料館」は、よかったです。単なる「観光地」ではないということかな。
 N子さんといっしょに、石灰岩や秩父古生層や洞窟生物やアンモナイトや三葉虫や・・・いろいろ学びました

 「洞窟資料館」に写真パネルで展示していた、小さな入り口から探検して泥まみれになって、この竜ケ岩洞を見つけて、広げて、観光洞にした話は、2人で、すごく感動しました。
 ちゃんと、物語や本にして欲しいです。 

 洞窟を出て食べた「わさびアイスクリーム」おいしかったです。
 N子さんにも、すこし、なめてもらいました。

 
  

 

遠州の遺跡・寺社6 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡

2010年04月11日 21時32分18秒 | 遠州古代史
遠州の遺跡・寺社 天白磐座(てんぱくいわくら)遺跡

 今日4月11日(日)は暖かくて、N子さんと2人で、お弁当(おにぎり)を持って北区引佐町まで出かけました。
 
 今日の一番の目的地は「天白磐座遺跡」です。数年前に初めて行ったことがあり、今回が2回目です。

 渭伊神社の駐車場に車を止めて、「むささびがいます」という看板を見て、ゲートボールをしているおじいさん・おばあさんたちの横を通り、渭伊(いい)神社の境内に入りました。
 N子さんは、ぼくの神社趣味を知っているので別に驚かないのですが、「ここが何か特別な神社?」と怪訝な顔でした。
 N子さんの前に立って、渭伊神社さんの前で(今日は裏を見せてもらいますよ、よろしくと)拝んでから、神社の横をすり抜けて裏山に登っていきました。
 
 急な山を登っていくと、現われました。
 山の途中に、いくつもの大きな石が土の中から露出していて、山頂(標高は約42m)にはひときわ巨大な岩が3つ、とくに2つの石が大きく、その真ん中が空間になっていて、異様な空間です。
 「すごい、なにこれ」とN子さんも感嘆し「誰かがこれ運んできたの?」と言います。確かに、まるでダイダラボッチか誰かが、大きな磐を3つここに運んできて置いたみたいな状況ですが、それはないだろう、むしろ、逆に、誰かがこの位置に埋まっていた巨石を土の中から掘り出したのではないか、と思います。

 辰巳和弘さんなどが、この遺跡を発見し発掘調査をした結果、周囲の土の中から、古墳時代を中心に、縄文時代から江戸時代までの祭祀遺物が発見され、縄文時代から江戸時代まで続く祭祀遺跡であることが明らかになりました。

 おもしろいのは、3つの巨磐に囲まれた山頂部分には、古墳時代の遺物は見つからないことです。つまり、最盛期の古墳時代には、この3つの磐に囲まれた地は、立ち入ってはならない神聖な空間だったということになります。

 全国でも数少ない、遠州地方でも画期的な遺跡です。
 何よりも、この大きな磐やたくさんの岩と、森と山がつくりだす異様な、結界のような空間は、まさに神が降りてくるにふさわしい、一人きりではこわくなるような「異界」です。

 それにしても、これほど重要な遺跡なのに、ほとんど人は来ません。僕たちがいた時間帯も、中年の男性が1人来ていただけでした。まあ観光地化して、人がこの神聖な結界をけがしても困りますが。
 
 山頂から南西部の山裾のぎりぎり、もう向こうは神宮司川という地点にも大きな岩とそれに重なって少し小さい岩があって、「鳴岩」というそうです。
 これは山頂の磐とは違って、磐と磐のあいだがほとんどありません。
 こちらは、小さめの厚みの薄い磐は、もしかしたら、運べた可能性もあるのではないでしょうか。
 2つか3つの磐またはその磐と磐のあいだの空間を神聖視するという基本点は変わらないとすれば、そういう空間を作り出すために、小さめの磐を運んだという可能性も考えていいのではないかと、思います。

 もちろん、事実に基づく考察の範囲内である考古学では、そういう空想や推理は範囲外ですが、僕たちがそれに縛られる必要はもうとうないので、思いきり空想の翼を羽ばたかせたいと思います。

 この山のすぐ北と西を青い水の神宮司川(じんぐうじがわ)が流れていて、まさに「引佐」町は、土着豪族の「井伊(いい)氏」が支配してきた「井(い)」の町であり、同時に「石(いし)」の町であることを痛感します。

 参考文献としては、辰巳和弘さん著『聖なる水の祀りと古代王権・天白磐座遺跡』<シリーズ「遺跡を学ぶ」033>、新泉社、2006年12月2日発行、定価1575円が一番でしょうか。

 もちろん、正式の発掘報告書も出ています。辰巳和弘さん編で『天白磐座遺跡』引佐町教育委員会発行、1992年刊、です。
 浜松市に問い合わせれば、まだ在庫があるかもしれません。私は数年前に旧引佐町役場で買いました。

 なお「磐座」という言葉がここで使われたかどうか明確でないことから、「渭伊神社境内遺跡(いいじんじゃ けいだいいせき)」と呼ぶ人もいます。

 蛇足ですが、木谷恭介さんが『遠州姫街道殺人事件』というのを祥伝社から出しています。まだ読んでいませんが、手に入れて読んだら「本と映像の森」にアップします。

 さて、まだ問題があります。それは「天白(てんぱく)」という地名です。この「天白」とは、静岡県から三重県にかけて「天白神社」という神社が分布していて、その関係かとも思います。
 中区十軒町のわが家のそばの上島5丁目にも「天白神社」があります。この「天白神社」について調べると、何か「天白磐座遺跡」の謎に一歩近づけるかもしれません。

 それと、やはり日本全体での、磐座信仰・岩信仰を調べないといけないということでしょうか。

 さっき書いた「井の国」と「石信仰」の結びつきという点では、やはり注目すべきは、あの有名な北九州の「磐井の乱」(乱なのかどうかは異説が出ていますが)の「磐井(いわい)」でしょう。
 記紀では、近畿天皇家に反抗した地方勢力で北九州の王、ということになっていますが。
 まさしく、水と石の信仰を体現した名前です。
 これ、どういうことなんでしょうか。

 半日の歴史ツアーから帰ってきて、上島の行きつけのコーヒ-(雨宮は)や紅茶(N子さんは)のおいしい喫茶店「シーン」で、N子さんいわく「自分の地域にいろんな,おもしろいものがあるのね。」
 これから暇を創って、いっしょに地域の歴史を回ろうという話になりました。

 今日の話の続き、まだアップします。
 次は「石庭」です。