Movieな空間

映画大好き人間の気ままな空間です!!

神という位置

2008年02月01日 00時12分49秒 | Weblog

 神の位置に、存在を高めた戦国武将がいる。「徳川家康」である。1616年、家康が、てんぷらを食して病死したというこの年、75歳という、当時としては相当な長寿を全うした家康の遺言の通り、遺体は、静岡県の久能山に葬られ、その1年後、日光に改葬された。久能山は、家康が幼少を過ごした故郷・駿河の国であり、そして、改葬地である日光は、「神になる」ことを意味していた。日光は、江戸から見ると真北に位置した場所で、ここに墓を創設することは、神聖な「北極星」と同軸に座す、すなわち「神と同一の位置」に座す事を意味していた。東照大権現という「神」になった家康は、不動を象徴する北極星と座標を同じくする事によって、徳川幕府の安泰と恒久的平和を自らが守ろうと考えたためであった。さすがに、260年に亘って徳川時代を築く礎を、この時に磐石に築いた事を意味するのだ。
 しかし、伝えられる史実とは異なり、もう一箇所、家康の名が刻まれた墓がある。それは、大阪府堺市の南宗寺(なんしゅうじ)である。この寺は、沢庵和尚が住職を務め、千利休が修行を積んだ寺として有名であり、家康も生前には、上洛の折り、この南宗寺に何度か立ち寄った事があるのだ。この寺の境内に、「徳川家康の墓」と刻まれた屋根付きの大きな墓石があるのだが、何故か?史実には、3代将軍となった家光とその父・秀忠が前後して参拝し、将軍任官を報告したという記録が残されている。また、明治初期には、旧幕臣で「剣聖」と称えられた山岡鉄舟が、この寺を訪れ、「無銘の塔、家康諾す」と刻んだ石碑を建てている。何故、これ程の拘わりのある人物が、この墓を訪れるのだろうか?この寺の家康の墓が、何の根拠もなしに立てられていよう筈がない。
 この理由はこうだ。家康は、実は、75歳まで生きたのではなく、1615年の大阪夏の陣にて、討ち死にしていたというのだ。大阪城を守っていた真田幸村は、獅子奮迅の活躍で、3000の手勢で、大阪城を囲んでいた松平忠直率いる1万3000の守備隊を突破し、家康の本陣に3隊に分かれて突入したというのである。この時、家康の本陣は総崩れとなり、家康は死を覚悟して、切腹を何度も口走ったという記録が残っている。この時に、真田幸村に深手を負わされた家康は、葬儀の行列の棺に入って、戦場を脱出しようとしたが、これを怪しんだ後藤基次に槍で突かれて致命傷を負い、担ぎ込まれた南宗寺で死亡したらしい。その死骸は、密かに埋葬されたということだ。家康の死を公表できないため、家康の存在を形作るため、小笠原秀政が、その後の家康として影武者を務めたというのである。てんぷらを食して死んだのは、家康ではなく、この小笠原秀政だったようだ。
 しかし、歴史とは、真実がもみ消された史実で構成されているようで、不信感を抱くものの、また、裏事情を知るにつれ、面白いものだと感じるものである。