会津の重ちゃん日記

日常の出来事、地方紙の記事、街中散策して見聞したことを発信。

秩父夜祭 2

2012-12-08 19:00:19 | 旅行
2012年12月8 日(土)曇り・雨  5.6度

朝食後 外は明るく晴れていた。鉢物を入れた藤棚や植木棚の囲いが残っていたので、急いで外に出て縄やすだれを用意して作業に取り掛かった。30分もたたないうちに真っ暗になりみぞれが降り出した。明日は一日中雪降りの予報なのでヤッケを被り囲いができるまで仕事をした。少し休んでインターナショナルスイミングクラブ「腰痛コース」へ出かけた。ストレッチと水中運動をしたので筋肉の疲れをとることができてよかった。夕方は早めに入浴して夕食をとった。
その後、「秩父夜祭 2」についてブログをアップしました。


秩父神社は中世になると、秩父氏(坂東八平氏の一つ)の祖先である平良文により妙見菩薩が合祀され、妙見宮秩父神社となったと伝えられる。江戸時代には秩父大宮妙見宮として、日本百観音の秩父三十四箇所(秩父札所観音霊場)とともに栄えた。

 神社の四方には左甚五郎の作といわれる「つなぎの龍」や「見ざる・聞かざる・言わざるの三猿」の彫刻が施されたいた。 かつて秩父夜祭は「霜月大祭」との呼び名があった。これは霜月である旧暦11月3日に行われていたことに明治初期の太陽暦採用により新暦の12月3日に移行した。


 また「お蚕祭り」とも呼ばれた。秩父地方は、桑の生育に適した土地であったため、田畑の他に現金収入となる養蚕・絹織が盛んであった。江戸時代には絹の生産量が増大し、「秩父絹」として江戸をはじめ広く知られるようになった。各地に取引のための絹市が開かれ、大宮郷(現在の秩父市中心部)では1・6の市日の六斎市が行われている。特に秩父神社の「霜月大祭」では「絹大市」も行われた。神社には「白まゆ」の他に薄緑色の埼玉ブランドまゆ「いろどり」が奉納されていた。
 その市に遠方から来る人々を楽しませるためにはじめられたものが、笠鉾・屋台などの「付け祭り」だとされる。、


 境内には「屋台芝居」公開を終えた当番屋台町会「宮地」の笠鉾・屋台があった。12:30~14:00までの公演だったので見学できなかった。残念だがしかたがない。また、境内には乳房を連想させる「乳銀杏」の大木があり珍しい。また、境内入り口には神馬2頭が小屋に繋がれていて多くの参拝者が写真を撮っていた。夕方から始まる笠鉾と屋台の曳行や団子坂の引き上げや辻のギリ回し,花火大会まで時間があるので秩父ふるさと館や団子坂・御旅所・秩父駅前など街中を散策した。

(つづく)