梅雨真っ只中とは言え、予報に反してあまり雨が降らない。
ただ確実に暑くなって来てるので、もう夏なんだな、という感じはする。
それは稲や野菜の伸び具合を見てもわかる。
猫家に引っ越してからちょうど3年が経つけれど、今年ほど桑の実を食べた年は無かった。
なぜかというと、去年立て続けに2棟、桑の木の下に鶏小屋を建てたからだ。
ニワトリも1年少し前に近所からつがいで頂いた鳥を飼い始めたのが最初で、今までに29羽のヒヨコが生まれ、世代交代もあり、肉として食べたのもあり、幼くして死んでしまったのもありで、今では18羽の所帯になっている。
生き物を飼うというのは結構時間と手間がかかるもので、朝晩の水や餌やりの他に、折を見ては草をやったり様子を見たりで、鶏小屋には頻繁に通っている。
それで結果的に、今年は例年になく桑の実を食べることになった。
かつて日本は世界一の養蚕国だったそうで、どの田舎でも桑を栽培していたそうだ。
その名残なんだろう、人里近い山にはよく桑の木が自生しているのを見かける。
我が家の周りや裏庭にも、何本もの桑が枝葉を茂らせており、毎年実を落としてはそこかしこで新しい若木が芽を出している。
鶏小屋はちょうど、夏に葉が茂った時に小屋が日陰になるように建ててある。もちろん冬には葉がすっかり無くなってるので、逆に日当たりが良くなる。暑さに弱い鶏のためを考えたロケーションである。
毎年6月になると桑の実は赤くなり、それがひと雨ごとに黒くなって梅雨に入る頃にはちょうど食べ頃になる。
この時期になると、私は鶏小屋に行くたびに、少しずつ桑の実をつまんでは味見できるようになる。また鶏たちも桑の実が好きみたいだ。
もう何年も前に、とある田舎の共同作業で河川敷の草刈をしていた時に、川端に生えていた桑の枝に蚕を見つけたことがあった。
蚕は、カイコガという蛾の幼虫のことで、もともと自然界にそのまま住んでたものだから、人間が養殖をやめてもしっかりと生き残っているらしい。
たくましいものだ。
その反面、牛や豚、鶏のほとんどは品種改良が進んでるので、もはや自然の状態では生きられない。人間に保護してもらって初めて生きることができる、半人工的な生き物とも言える。
そればかりか、現代では人間自体が半人工的になってきている。
大量の化学物質や環境ホルモンを摂取している人間は、このままで行くと、自然界で自立して生きることができなくなってしまうのではないだろうか。
今の作物は、元を辿れば石油やリン鉱石を化学反応させて抽出した成分(化成肥料)で体を構成している。つまり、土からできたとは言えない植物だと思う。
またそんなことを、大げさな、と思われるかもしれないが、実際に化成肥料を使った場合と使わない場合を比べた上で、私は今そう思っている。
それを食べる家畜も、人間も、その体はもはや土からできているとは言えない。石油からできているといったほうが近い。
私が、お金にならない自給農業にこだわって生きているのも、実はある時このことに気づいたからだ。
蚕も桑も、たくましい。人間の手を離れてもちゃんと健康に生き、子孫を残していける。
また彼らはいつだって、さまざまな面で人を支え、人に潤いを与えて来てくれた。
今はこの集落でも桑の実を楽しむのは私くらいなものだけど、もし将来、人間の作ってきた科学技術や機械に頼れなくなる時代が来たりしたら、再び蚕や桑が、人々と密接に生きる時が来るかもしれない。
そんな時が来ても、また面白いんじゃないかと思う。
【写真は、ちょうど桑の葉陰になる鶏小屋。鶏に水をやって振り向けば、そこには桑の実がたわわになっている!】
ただ確実に暑くなって来てるので、もう夏なんだな、という感じはする。
それは稲や野菜の伸び具合を見てもわかる。
猫家に引っ越してからちょうど3年が経つけれど、今年ほど桑の実を食べた年は無かった。
なぜかというと、去年立て続けに2棟、桑の木の下に鶏小屋を建てたからだ。
ニワトリも1年少し前に近所からつがいで頂いた鳥を飼い始めたのが最初で、今までに29羽のヒヨコが生まれ、世代交代もあり、肉として食べたのもあり、幼くして死んでしまったのもありで、今では18羽の所帯になっている。
生き物を飼うというのは結構時間と手間がかかるもので、朝晩の水や餌やりの他に、折を見ては草をやったり様子を見たりで、鶏小屋には頻繁に通っている。
それで結果的に、今年は例年になく桑の実を食べることになった。
かつて日本は世界一の養蚕国だったそうで、どの田舎でも桑を栽培していたそうだ。
その名残なんだろう、人里近い山にはよく桑の木が自生しているのを見かける。
我が家の周りや裏庭にも、何本もの桑が枝葉を茂らせており、毎年実を落としてはそこかしこで新しい若木が芽を出している。
鶏小屋はちょうど、夏に葉が茂った時に小屋が日陰になるように建ててある。もちろん冬には葉がすっかり無くなってるので、逆に日当たりが良くなる。暑さに弱い鶏のためを考えたロケーションである。
毎年6月になると桑の実は赤くなり、それがひと雨ごとに黒くなって梅雨に入る頃にはちょうど食べ頃になる。
この時期になると、私は鶏小屋に行くたびに、少しずつ桑の実をつまんでは味見できるようになる。また鶏たちも桑の実が好きみたいだ。
もう何年も前に、とある田舎の共同作業で河川敷の草刈をしていた時に、川端に生えていた桑の枝に蚕を見つけたことがあった。
蚕は、カイコガという蛾の幼虫のことで、もともと自然界にそのまま住んでたものだから、人間が養殖をやめてもしっかりと生き残っているらしい。
たくましいものだ。
その反面、牛や豚、鶏のほとんどは品種改良が進んでるので、もはや自然の状態では生きられない。人間に保護してもらって初めて生きることができる、半人工的な生き物とも言える。
そればかりか、現代では人間自体が半人工的になってきている。
大量の化学物質や環境ホルモンを摂取している人間は、このままで行くと、自然界で自立して生きることができなくなってしまうのではないだろうか。
今の作物は、元を辿れば石油やリン鉱石を化学反応させて抽出した成分(化成肥料)で体を構成している。つまり、土からできたとは言えない植物だと思う。
またそんなことを、大げさな、と思われるかもしれないが、実際に化成肥料を使った場合と使わない場合を比べた上で、私は今そう思っている。
それを食べる家畜も、人間も、その体はもはや土からできているとは言えない。石油からできているといったほうが近い。
私が、お金にならない自給農業にこだわって生きているのも、実はある時このことに気づいたからだ。
蚕も桑も、たくましい。人間の手を離れてもちゃんと健康に生き、子孫を残していける。
また彼らはいつだって、さまざまな面で人を支え、人に潤いを与えて来てくれた。
今はこの集落でも桑の実を楽しむのは私くらいなものだけど、もし将来、人間の作ってきた科学技術や機械に頼れなくなる時代が来たりしたら、再び蚕や桑が、人々と密接に生きる時が来るかもしれない。
そんな時が来ても、また面白いんじゃないかと思う。
【写真は、ちょうど桑の葉陰になる鶏小屋。鶏に水をやって振り向けば、そこには桑の実がたわわになっている!】
紫陽花も色が変色し始めてます。
このまま夏になっちゃうのかな?
水不足が心配。。(--;)
幼稚園の時に養蚕農家を訪れたことがあります。
白い芋虫みたいのがザワザワを音を立てながら
桑の葉を食べていました。
夢に出てきたほど衝撃的でした。^^;
桑の実ってどんなのかな?
良かったら写真アップして見せて下さい。^^
とても 懐かしいです
口の周りや 手が 紫に変わったこと
少し 思い出しました
鍋に残しておくと、食べ物が腐りかけてたりします。
気をつけないと・・・。
読んでくれてありがとう。
朝早くから鶏や猫たちが騒ぐので、朝寝坊もしてられません。体調はよく整えておいた方がいいですね。
さて、桑の実なんですが、先日写真を撮ろうと思ったけど、葉の内側からだと逆光になってしまって、結局撮れませんでした。
今はもうほとんど実が無くなってしまったので、今年はもう撮ることができません。
デジカメじゃないから、気軽にパチパチ撮りにくいんですよ。
いつかいい写真が撮れたら、お見せします。
exblogには素晴らしい詩を作る方が多いので、よく行ってます。gooblogにもいるんだろうけれど、exciteのようにカテゴリー別になっていないし、詩については今のところあまり興味深いblogを見つけれていません。
私はいつも長い話をしがちなんですが、「詩」はあれだけ短い言葉で、時には長文と同じくらいの内容を伝えることができる。
最近私も「詩」らしいものを作り始めたけど、言葉を選ぶのは、結構難しいものだなと思いました。
幸い素晴らしい方たちとblogで知り合ったので、これから「詩的」に自分の思いを伝えれるようにやってみようと思います。
吟曜日さんの詩は、まとまった内容を伝えてるものが多いので、そういう私には参考になります。
時々読ませてくださいね。
あらゆる事象にあなたの透明さが遍く照らされている。
わたしのcomentもそうかもしれぬが、あのような噛み合わぬ”応酬”はしないものだ。と、思う。。。
直感でその人が理解出来るという人間は残念なことに少ないものだ。
本当に心優しい人間ているのだろうか?と云うところから、わたしは私の愚かさを見続けるのです。
詩作に期待してます。
こんなわたしのcomentでスマン!
先ほどblogを少し読ませていただきましたが、希少な体験をされているのですね。
記事に迫力があります。
この人は、素晴らしい人かもしれない、とも思いました。
私はblogを始めてからいろいろな人と会話ができるようになりました。動物を飼ってるので家を離れられないし、隣り近所にはほとんど年とった方しかいません。
persempreさんとのやりとりもお互いにとってためになることに繋がることだと、却って喜ばしく捉えています。
私の発想や思いも、固定観念を外すことから始まっています。「当たり前」と思っていたことを消して、まず真っ白な状態に戻すこと。
その結果、未だに自己形成中ですし、人との話もままうまく噛み合わなかったりしますが、もしかしたらそこに、社会の中での私の存在価値の一端があるのかもしれません。
出会う人ごとに、素直な自分を表して関わって行きたいと思います。その結果生まれる軋轢や行き違いは、長い目で見ればお互いのためになるような気がします。
これから時々blogを読ませていただきます。
コメントありがとうございました。
「縁」は至るところにありますね。何も特に親しくならなくても、ひと言言葉を交わす縁、挨拶を交わす縁、仕事の相手になる縁・・・そのひとつひとつが、何かしらの影響を私たちに与えてくれたりします。
私もこんな田舎にいるのですが、やはり日々いろいろな縁に出会います。
そんな小さな「縁」の積み重ねで、今の自分ができていたりして・・・。本当、「縁」はおろそかにできませんね。
persempreさんのblogを騒がせてしまいましたが、大きなテーマなので1度では終わらないかもしれないけれど、近いうちに記事に纏めてみようと思います。
お互い縁を大切にして行きましょう。
でも、それでも、丁寧にコメントくださった、agricoさんに、感謝です。
それから、海猫さんにも感謝。
でも、ここで、あそこのコメントの応酬が話題になってるなんて、ビックリです。
でも結果的にはみんなが良かったと思うことになると思います。私の場合、すべてそうなんです。
persempreさんは、いいblog友を持ってますね。
はにゃさんも南無さんも、心強い人たちですよ。
文章の裏を読み取るのが下手くそで、検討はずれなレスやコメントつける可能性があるかもしれませんが、その節は、はっきりとおっしゃってください。
今後ともよろしくお願いします。