高作自子 翻訳
この本は、ポール邦昭マルヤマの父上「丸山邦雄」と、実業家の「新甫八朗」、その若き社員の「武蔵正道」の三人による、満州に取り残された人々を、日本への引き揚げを成功させるために奔走した、勇気と人間愛に満ちた記録である。
ポール邦昭マルヤマ氏は、日本語で書いておりませんので、翻訳の方がいらっしゃるわけです。ポールは1941年日本生れ、満洲からの引き揚げ後、サンノゼ州立大学を卒業。アメリカ合衆国空軍に入隊。1964年の東京オリンピックでは、アメリカの柔道選手として出場とのこと。
敗戦後、日本政府は満洲に取り残された人々を帰国させることができなかったのだ。
その一例がこれである。
敗戦直後の哈爾浜において、外務大臣「重光葵」のお達しにはこう書かれていた!
『哈爾浜地区の事情がまったくわからないので、引揚交渉を行うにも方法がない。さらに日本内地は米軍の空襲によって壊滅状態にあり、加えて、本年度の米作は六十年来の大凶作。その上、海外からの引揚者数は満洲を除いても七百万人にのぼる見込みで、日本政府には、あなた方を受け入れる能力がない。日本政府としては、あなた方が、哈爾浜地区でよろしく自活されることを望む。』
哈爾浜のみならず、広大な満洲には、約170万人の日本人が遺されたのである。
わたくしの一家(私は1歳の赤ん坊だった。そして4歳と5歳の姉、父と母。)は、敗戦後には父の判断によって哈爾浜から新京に移動。そこで引揚までの日々を過ごした。
上記のお達しを、父が聞いたかは不明であるが。
しかし、父母の引揚体験の記録によれば、私達一家の引揚の時期は、この本に書かれた時期に合致します。おそらく私達の無事の引揚はこのお三人の命がけのご努力によるものと確信いたしました。遅ればせながら感謝します。もっと早く読めばよかったのに。
厳しい状況のなかで、命がけで秘かに満州を脱出し、日本へ渡り、満州の方々の引揚を実現されたことは、勇気ある行動であったと思います。
その勇気の後押しをして下さったのは、丸山一家がクリスチャンであったため、その神父様の協力は大きな守り神になって下さったようです。
外務大臣、総理大臣を説得し、さらにGHQに申し入れ、マッカーサーにまで辿り着いた。
引揚げ船がアメリカの船であったことは、敗戦国日本は全く無力だったということですね。
「GHQに丸投げした。」という説もあるようですが、あの時期の日本は無力でした。
GHQの判断と采配はすみやかでした。
この本を書かれたのは、丸山氏のご子息ですが、誰も書いてくれなかったのね。