《オシラサマ》
私事ですが(すみませぬ。)、栃木県足利市の母方の祖父の代まで、家業は絹織物の機屋であったようだ。その後の祖父はニューヨークに輸出される絹織物を生産する会社に所属する。(ここからが私の幼い記憶です。)ご近所を歩けば、のこぎり屋根の機屋の織機の音が聞こえる。渡良瀬川では反物をさらす作業が見られ、染物工場の用水路では色とりどりの水が流れていました。祖父の話では繭を茹でて糸をとった後の茹で蚕は鯉の餌にしたそうです。ですから養蚕農家の庭の池には必ず鯉を飼っていたそうです。子供時代に鯉料理を食べた記憶が多いのは、そのせいだったのね。
祖父の所属する会社では、ドイツ製の織機がたくさんあって、色とりどりの絹布が生産されていました。
これらの何気ない記憶が「足利織物」の歴史の一部であったことに気付くのが遅すぎたようです。下野国の足利義康の時代から、すでに足利は絹織物の産地であった。
群馬県の「富岡製糸場」が、にわかに浮上した今になって、改めて「絹糸」と「蚕」の歴史を考えるようになりました。その時期に、このよき本に出会いました。絹織物は群馬と栃木しか知らない私でしたが、養蚕農家は全国と言っていいほどにあって、絹織物も様々な土地の特色あるものが生産されていたのですね。
また「女工哀史」で洗脳された頭に「工女」という言葉があったことも知りました。「工女」とは、絹織物の技術と知識を身につけて、「女工」を指導する女性のことです。「工女」は比較的に恵まれた身分にあって、始めから指導者としての教育を受けます。政府が始めた富岡製糸場に集められた女性たちは「工女」だったのではないか。
母方の伯母の昔話のなかには、思いかえせば伯母は「工女」であったのではないか?と思われる節がありました。さらに「女工」と言われる方々の待遇のひどさも伯母の昔話のなかに含まれていました。確かではないので、これ以上は控えます。
養蚕が盛んな土地には、必ず様々な守り神が生まれ、神社に祀られている。日本の農家により豊かな暮らしをもたらした「蚕」を信仰にまで高めた歴史を想う。足利にも「織姫神社」がありました。
その中でも「オシラサマ」のお話は一番興味深いものでした。娘が馬に恋する。それに怒った父親が馬の首を切って、桑の木の枝に吊るした。嘆き悲しんだ娘と馬はそのまま天に上ったというお話です。桑は蚕の食べ物です。この桑に「オシラサマ」という神が宿った。これには諸説あるが、興味深く確かなことは、「オシラサマ」に祭りの度に着せる布の重なりの中に、織物の歴史がはっきりと見てとれるということでした。
「だるま」「天狗」「まゆだま」「猫」「蛇」などなど、養蚕とは無縁ではない信仰の対象になっています。養蚕農家が蚕を守るために必死であったことがうかがえます。
さらに、蚕の神とは異なるが、養蚕の盛んな土地には「キリスト教」が広まるという現象があった。畑中氏の解説によれば、絹糸の輸出によって西洋文化を受け入れやすくなっていたとのことです。ここでも私個人の謎が解けました。祖父の周囲には「キリスト教」の存在は希薄ではあったが、叔母の嫁ぎ先である群馬県伊勢崎市の家はキリスト教であったことは、私の幼い記憶にある。私より幼い従妹が亡くなったのだ。広い居間に祭壇が設えられ、飾る花がすべて生花だったことを覚えている。その花をすべて墓地へもっていって、小さな墓標の周りを埋め尽くした。コスモスの種が大量にこぼれて、翌年にはコスモスがたくさん咲いていました。年毎に花の位置は風によって遠のいていきました。(すみませぬ。私事ばかりで。)
書いていたらきりがない程に、自分のかすかな記憶に、畑中章宏氏の確かな論考が力を与えて下さったように思えます。
様々な文献と、筆者自らの足で土地への調査をされた結果としての、この一冊は、一読では頭に入りきれないほどの豊かさでありました。畑中氏の真摯な研究と調査が導いた一冊でありました。
(2015年 晶文社刊 初版)