塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来の初期中編 『魚』

2019-01-10 15:41:33 | 塵埃落定



阿来の初期中編『魚』 概要


 東チベットの山の中の小さな村、柯村。
 いつも河で魚を見ている子供がいる。ドク。

 この子は普通の子とは違っていた。ある人たちは、それはいとこ同士の近親婚のせいだという。近親婚の後裔には極端な生命方式が現われる。特別に頭がおかしいか、特別に頭が良くて寿命が短いか。このような家は、純粋な血統により高貴な感覚を生み出す。そして衰退へと向かって行くのである。このような家の最後の子共は不可解なものを好むことがある、例えば魚。魚はチベットでは畏敬され、神秘なものとされてきた。
 
 ドクの目は魚のように飛び出している。村人は彼を“魚目のドク”と呼ぶ。河辺で魚を見るのが好きで、常に魚のことを考えている。魚は冬になったらどこへ行くのだろう。暗い水の洞窟の中でどうやって物を見るのだろう。
 魚は人から畏敬される神秘的なものだ。だが、この一帯では魚は美しさに欠けるとしてま忌み嫌われていた。爬虫類のように憐れまれていた。誰も、魚が何を食べているのか知らなかった。魚は生きているのに食べる物がなく、常に飢えている、ならば必ず天罰に逢うだろう、と考えた。前世で有り余る富を集めたか、残忍だったか、ずる賢かった…まるで病人のように魚を嫌った。そのため魚は増えるばかり、一団となって黒々と河を下る姿は不吉なものに映った。だから村人は、魚目のドクの家の衰退を予感せざるを得なかった。

 ドクの父親は8歳年上のいとこである母と結婚させられたのだった。母チュウチュウの父は近親婚は牛乳に砂糖を加えるようなものと考えていた。こうすれば一族の財産はまた一つにまとまるのだ、と。だが父親は反革命に参加し、草原で殺されてしまう。ドクは今、母チュウチュウと父の弟シアジャと暮らしている。若い叔父シアジャは少女のようにか弱く、魚を怖がっている。

 数年後、母は風習通りシアジャを後添えにしようとするが、シアジャは男としての機能を果たせなかった。そこへ父と一緒に戦ったアンワンが帰って来る。父は死ぬ時、アンワンに妻を頼むと言い残したという。
 村へ帰ってすぐ、アンワンは反革命分子として、地主となったドクの一家と共に、批判闘争でつるし上げにあう。シアジャはアンワンが村人に打たれるのを怖がりながらも心の中で喜び、だが彼の行動には感動する。こうして彼ら4人は一緒に暮らすことになる。

 1960年代中頃、村に伐採場が出来、漢人がやって来る。彼らは魚を恐れない、魚を食べる民族である。彼らは山の木を切り倒し、森林は失われていった。彼らが魚を釣るのを見たドクは、魚が餌のミミズを食べ、蚊を食べるのを知り心を乱す。魚があんなに醜くふにゃふにゃのミミズを食べるなんて…これまで、魚は水しか飲まず、清らかで神秘的だと聞かされていたのに…
 伐採場からは魚を焼く良い匂いが漂って来る。ある日ドクとシアジャは伐採場で饅頭とスープをもらって飲む。それが魚のスープだと知ったシアジャは橋から落ちて死ぬ。自ら飛び込んだようにも見えたという。ドクはそうとは知らず麦畑へ一人入って行った。

 シアジャが死んでからドクはミミズを育て始める。そして、魚が河ではなく柳の林の中の水たまりにいるのを見て、不思議な興奮を覚える。

 数日後、両親が仕事にいっている間に雷が轟き大雨が降る。それにかまわず、ドクは一人で水たまりに行き、盗んだ竿にミミズを付け、魚を釣る。だが、魚はうまくかからない。激しい雨のため、水たまりから水があふれ、魚もあふれ出す。ドクはそばにあった木を拾い、魚を叩く。魚の白い腹の柔らかさに恐怖を感じながらも、次第に熱狂し、疲れも忘れ、アンワンが探し当て止めるまで魚を叩き続ける。たくさんの魚が死に、だが生きているかのように河へと流れていったった。
 帰り道、雨は止み、厚い雲の層の切れ目から黄金の光が溢れ出した。ドクはアンワンに言う。僕、もう魚はいらない、と。

 より多くの光が空から降り注ぎ、疎らだが清冽な鳥の鳴き声が背後で長く響く。橋と同じ高さまで逆巻く濁った水は、陽光に照らされて金属的な輝きと狂暴な音を発している。山野を覆うすべての気は河の中から湧き上がっていた。
アンワンとドクは村には帰らなかった。架けられたばかりの橋と共に消えてしまったのである。

 家の者がすべて世を去り、母チュウチュウの性格はがらりと穏やかになった。それは死ぬまで変わらなかったという。


         * * * * *


チベットでは、魚は一つの生命として神聖視されているとはよく聞くが、忌み嫌われているとは知らなかった。
同じように、文革期のチベットのごく普通の生活とその移り変わりについて知る機会は少ない。
阿来は美しい筆致で時に細やかに、時に非情に、時に幻想的に描いていく。山と光と水の美しさ、魚の死を思わせるなまめかしさ、少年たちの危うさが、物語以上にスリリングに伝わって来る。

魚目のドクは、自らの血と、習慣を超越した魚への執着によって、家と村の衰退を背負っていたかのようだ。それは後の『塵埃落定』の原形と言えるかもしれない。

阿来にはもう一つ『魚』と題された短編がある。それを読んでから、更に魚について考えたい。