フォークナー短編集(滝口直太郎・訳)を読み終わった。
硬直したアメリカ南部の人々、特に女性の心理を描いた物語、ヨクナパトーファに連なる作品等、バラエティーに富んでいる。
『納屋は燃える』は、村上春樹の『納屋を焼く』との関連性をよく語られている。
この作品もヨクナパトーファに属する作品と言えるだろう。
怒りを抑えられず、気に入らないことがあると、その家の納屋を焼き他の地に一家で移住するという生活を繰り返す父親(スノーブス)と、そんな父を尊敬するしか知らなかった少年が、いつしか自分の中に流れる血と抗いながら父親の行為に疑問を持ち、さらに父親を救おうとさえするようになる、その心の葛藤を描いている。
この短編集の中で私が一番面白いと思ったのは『赤い葉』だった。
インディアンの首長が死ぬ。首長の埋葬に当たって、それまでそばに仕えていた黒人を副葬するという習慣があるが、生に執着するその黒人は失踪してしまう。二人のインディアンが男を探しに行く。
道々の会話から、二人は心の中でこのやり方に反対しているのがわかる。それはインディアンの誰もが考えていることでもある。インディアンにとって黒人は白人から押し付けられた厄介者だった。汗をかくのが好きな黒人のために仕方なく畑を耕すという仕事を作ってやったが、そうなれば自然の成り行きとして、白人をまねて、土地を開き、食べ物を植え、黒人を育て増やし、その黒人を白人に売るようになっていく。インディアンは本来汗をかくのが嫌いなのだが。
何日かが過ぎ首長の体は腐っていく。だが二人のインディアンに焦った様子はない。明日は今日なのだから。
黒人たちも男にそっと食料を与えたりはするが、匿うわけでも突き出すわけでもない。誰もが結末は分かっているのだ。
こうして6日目に男は捕まる。男は最後に思い切り水を飲ませてもらう。
インディアンが終末へと向かう停滞したかのような時間の中で、彼らと黒人の関係が描かれて興味深い。
だが、ある研究者の発言によるとフォークナーの描くインディアンは歴史的には不正確なことがあるという。それは本人も「でっち上げ」と認めていて、史実と伝承と類型の寄せ集めであるという。だが、それが作品を否定する理由にはならないだろう、と私は思う。
同じ研究者が書いている。フォークナーの書くインディアンは強制移住の時代から南北戦争後の時代に、白人に道を譲って消えていくインディアンであり、消滅を運命づけらているようだ、と。
まさしくこの『赤い葉』に描かれている世界だ。
『響きと怒り』の訳者による解説にでは、ヨクナパトーファ・サーガの第一作ともいえる『サートリス』で、フォークナーが描こうとしたのは、架空の街の名門サートリス家が滅んで行く、旧家没落の物語だという。
終末を描くこと、それは次の時代を描くことにつながっていく。壮大な家族の物語、ヨクナパトーファ・サーガである。
阿来もまた、『塵埃落定』でまさに終末を描き、次の『空山』を生み出した。東チベットのある村の文革期を乗り越えた人々の物語だ。それは初期の短編集の中にすでに原形を見せている。