塵埃落定の旅  四川省チベット族の街を訪ねて

小説『塵埃落定』の舞台、四川省アバを旅する

阿来『ケサル王』 86 物語:ギャツァ、命を捧げる

2015-01-03 15:46:10 | ケサル
物語:ギャツア、命を捧げる その1




 さて、北の境界を守っていたのは大将タンマだった。
 彼は自らの兵を率いて丘に登ると、ホルの兵馬は強壮であり、陣形は厳密で隙がないのを見て取った。

 黄帳王は中央の軍で守りを固め、左には鷹の翼のような黒帳王の軍、右には鷹の翼のように強靭な白帳王クルカルの軍が大きく陣取っている。
 この三つの陣は後方で緊密に呼応し、三陣の前方には、シンバメルツが自ら率いる矢じりの様な先鋒部隊が陣取り、その姿はより威厳に満ちていた。

 この時リンは妖気が一掃され、天下泰平を謳歌していた。

 タンマが境界を巡回した時、周りには数十騎の兵馬しかいなかった。
 彼が受けた命とは偵察のみだったので、軽率に行動を起こすことはできなかった。

 だが、タンマは考えた。
 自分はケサルがまだ王位に着く前からすでに忠誠を誓っていたのだ。国難の時、今働きをしなくてはもはや機会はないかもしれない。

 そこで、数十騎の兵馬を報告に奔らせ、自分は一人でホル国の軍と戦う決心をした。

 突然乗っている馬が話し始めた。
 「ホルの軍は牛の毛のようにたくさんいます。将軍とこの馬だけでは、イナゴのように密集した矢に阻まれて陣の前まで行けないでしょう。こうしたら、うまくいくかもしれません」

 戦馬の言うことを聞きもっともだと考えたタンマは馬から降り、足を引きずる振りをして一人ホルの先鋒部隊の兵営をぐるぐると回った。
 馬も足の悪い振りをして脚を曲げたままそろそろと後ろをついて行った。

 こうしてホルの陣の前まで来ると、タンマは身を翻して馬に跨り、一路中軍まで突進し、大きなテントをいくつかひっくり返した。
 夕暮れ時の光に乗じて一路敵を倒しながらついには先鋒の兵営に突入し、ホルの混乱に乗じて、騎兵が谷間に放牧していた戦馬をリンの側に追い込んだ。

 シンバメルツはもともと兵を出したくはなかったので、この機に乗じてクルカル王に進言した。
 「リン国では足の悪い人や馬でさえあのように並外れた働きをするのです。もしケサルが大軍を率いて襲ってきたら、より厳しい戦いになるでしょう」

 すでに心を決めているクルカル王は言った。
 「陣の前で兵の心を揺るがすとは、何たることだ。これまでの戦功を思わなければむち打ちの刑にするところだ」

 シンバメルツは真っ直ぐな気性の猛者であり、軽視されては我慢がならず、その場で怒りに火が付き、配下の2万の先鋒部隊を率いてリン国へと襲撃に向かった。
 途中でタンマを救援に来たギャツァの部隊と遭遇し、両軍はそれぞれが一丸となって天が暗くなるまで殺し合いは続き、血は河となって流れた。

 ホル軍は支えきれず、境界まで下がった。
 リン軍も大きな痛手を受け、追撃する力はなかった。
 もし相手がすぐさま更に大規模な攻撃を仕掛けて来たら抵抗する力はなかっただろう。

 幸いにも相手はリンの地形を知らず、軽率には攻めて来なかった。
 双方は境界線上で互いに相手の虚実を探り、談判する様を装った。
 これは首席大臣ロンツァの得意とする戦術だった。

 彼は派手な軍装に身を包み、鷹揚に構えていた。
 こうやって駆け引きを繰り返しているうちに、一年の月日が経った。
 ロンツァがかつてすべてのリンを統括していた時の力量を発揮しているのを見て誰もが少し安心した。

 だがトトンはこの様子に心中焦っていた。
 彼は、クルカル王が一日も早く大軍を指揮して来襲し、競馬の賞品だったジュクモを奪って行けば、自分の心の中に潜んでいる恨みを解消出来るのにと思っていた。

 だがクルカル王は首席大臣の計略にすっかり惑わされていた。

 この日ギャツァはまたクルカル王に信書を送り、厳冬が到来する前に、お互いに兵を引いて休息し、来年もう一度戦うか談判するか決めたらどうかと提案した。

 クルカル王は何度かためらったが、ここで休戦することには甘んじられず、終には、どんなことがあっても兵馬を集め、リンに向かって大規模な攻撃を仕掛けることに決めた。
 もし成功しなければその時に協議して兵を引いても遅くはない。

 思いがけず、攻撃を始めてから三十里の間、抵抗する兵馬はなく、更に三十里進んで、やっとまともな抵抗を受けた。
 数日攻撃を続けると、リンの兵馬は徐々に支える力を失い、大敗は目前に迫った。

 その時になってやっと、首席大臣はギャツが南方で訓練し戦術を身に着けた兵馬を移動させることを許したが、すでに遅かった。

 この有様に、ジュクモはより一層自分を責めた。
 自分がこの戦いの直接の原因であり、ケサルが遠く魔国にいったまま数年も戻って来ないのも、総て自分のせいでで起こったことだと、ジュクモは考えていた。

 そうであれば、鈴を解くには鈴を付けた者が行くべきで、リン国の平安を保つには、自分が苦しみを引き受けるべきなのだ。
 国王は信書を手にしても帰ろうとされない。それは自分に愛想をつかしているのだろう。
 
 もはやこれまで、クルカル王に従うしかない。

 考えが変わるのを恐れて、ジュクモはすぐにクルカル王に信書を届け、戦いを止めるよう願い、自分は王に従うと伝えた。