二言瓦版

「復讐は神に所属する。」 「旧約聖書」


暇つぶしの記事、名言、珍言、コラムの批判。
株式の名言など。

今年は、多い。芸能人の

2020年12月26日 01時55分41秒 | ニ言瓦版

今年は、老人が、死ぬ時期だ。

でも、可笑しい、芸能人の死は、多すぎる。

何か、感染の影響かもしれない。

 

 

 

「「北酒場」「石狩挽歌」などのヒット曲で知られる作詞家で、直木賞作家のなかにし礼(なかにし・れい、本名中西礼三=なかにし・れいぞう)さんが23日午前4時24分、心筋梗塞のため東京都内の病院で死去した。82歳。旧満州(現中国東北部)生まれ。葬儀・告別式は家族のみで行い、後日お別れの会を開く予定。喪主は妻中西由利子(なかにし・ゆりこ)さん。

 学生時代からシャンソンの訳詞に取り組み、俳優の石原裕次郎さんの勧めや歌手菅原洋一さんのヒット曲「知りたくないの」(1965年)の訳詞を手掛けたことがきっかけで作詞家に。2000年に「長崎ぶらぶら節」で直木賞を受賞した」

 

 

ご冥福を祈ります。

 

 

 

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もっと、調べるべきだ。総額、桜の見る会総額。

2020年12月26日 01時46分15秒 | ニ言瓦版

こんなの、大したことでいない。捕まえて、裁判するしかない。

 

なぜ、しない。司法は、怠慢。

裁判所に問われる。

 

「「桜を見る会」前夜祭の疑惑を巡り、安倍晋三前首相が出席して25日に開かれた衆院議院運営委員会で、国民民主党の浅野哲氏が、会場となったホテル側に対して、安倍氏周辺から発言の強要を受けたとの情報が、同党に寄せられたとして、安倍氏に事実関係をただした。安倍氏は「存じ上げないが、私の感覚としては(自身の)事務所等がホテルに圧力をかけることはないだろう」と否定した。 浅野氏は、昨年11月15日にホテル側の担当者が、安倍事務所側から呼び出された上で、首相官邸関係者とみられる人物から、安すぎると問題になっていた1人5000円の会費について、「『5000円で受注することもある』と発表するよう強要された」との情報があると指摘した。」

 

 

国会も、問題。

なんで、発行した、ホテルの経営者を呼ばない。

そして、資料、出すことと説明することだ。

ホテルで泊まった人数と、その内容、説明することだ。

 

それから、何年間、桜の見る会の客と思える、総額、説明することも、国会で、必要。

もともと、桜の見る会の総額は、どのくらいか、それと、民間に払った、金は、どのくらいか。

問われる。

民間も払った額は。

ただで、桜見る会に、行ったのか、問われるものだ。

 

新宿御苑は、斎場だろう。

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それ、変わらない、感染の原因は、

2020年12月26日 01時35分04秒 | ニ言瓦版

新規署名キャンペーンは前年同時期と比べ約3倍に

 

コロナ禍、日本で暮らす多くの市民の行動にポジティブな変化が起きていた(写真はイメージです)。

日本の“出る杭は打たれる”風潮を終わらせるのは若者か

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天正か。

2020年12月26日 01時12分34秒 | ニ言瓦版

天正の話は、面白い。

大河ドラマで、天正の話は。

 

「■ほぼスルーだった「天正」改元の話

 NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第37回「信長公と蘭奢待(らんじゃたい)」は急展開で、織田信長が深くかかわった「天正」改元の話はほぼスルーだった。

 

 今回は、ドラマでほぼスルーされた「天正」改元の話を取り上げることにしよう。

 

■改元の提案

 元亀4年(1573)2・3月を境にして、織田信長と足利義昭との関係は急速に悪化し、ついには断交に至った。やがて、両者は交戦におよび、信長が勝利した。

 

 そして、天正元年(1573)7月21日、突如として信長は朝廷に対し、元亀から新しい年号に改元するという提案を行った(『御湯殿上日記』)。義昭を追放した直後のことなので、信長は自らが将軍の代わりになったという自負があったに違いない。

 

 信長の提案を受けた朝廷は、すぐに改元へ向けて作業をはじめた。同年7月29日、朝廷は信長に改元の要望を申し出た。その理由は将軍・義昭の姿は京都から追放されたため、信長を頼らざるを得なかったからと推測される。

 

■「天正」という年号

 朝廷が信長に改元を依頼したことは、極めて異例のことだったといえるだろう。改元の際は驚くべきことに、信長が「天正」という年号を要望したことが知られている(『壬生家四巻之日記』)。

 

 通常、新たに年号を選定する際には、学識ある年号勘者が過去の年号を調査し(中国、朝鮮などの外国も含め)、中国の古典などから年号を考えて案を作成する。

 

 その後、年号勘者が提出した複数の新年号の候補を検討し、天皇が最終的に決める。元亀からの改元のケースでも、「天正」以外に複数の新年号の候補があった。

 

 改元が急な信長からの申し出であったことと、十分に年号勘者が確保できなかった事情もあったが、「安永」「天正」が最終候補として残った(『改元部類』)。

 

■「天正」の意味

 天正には、どのような意味があったのか。『改元勘文部類』によると、「清静なるは天下の正と為る」という意があると書かれている(出典は『老子』)。

 

 新年号候補の「天正」は、まさしく信長の意向に沿うものだった。「天正」の意味を知った信長は、これ以外には考えられなかったのかもしれない。

 

■信長の意図

 突然、信長が改元を朝廷に申し出たのは、何か意図があったのだろうか。義昭が京都から追放されて以降、信長には武家側のトップに立ち、朝廷を支えて天下静謐に導くという意識が生じたと考えられる。

 

 かつて信長は義昭に改元を速やかに行う要求したこともあったのだから、改元を急いだのは当然だったといえる。新年号について記した綸旨には、「天下静謐安穏」と記されている(『東山御文庫記録』)。

 

 また、新年号「天正」の意味は、先述のとおり「清静なるは天下の正と為る」ことで、信長が目指した「天下静謐」と見事に合致した。

 

■信長の強い決意

 信長が新年号に希望を述べたのは極めて異例だったが、それは天皇の職権を侵すという性質のものではなかった。「天正」が持つ「天下静謐」という意味は、信長も正親町天皇も同じ思いだったからである。

 

 信長は改元を行った時点で、武家のトップとして天皇を推戴する決意を強く固めたといえよう。しかし、それは征夷大将軍になって、幕府を開くことを決して意味しなかった。

 

 こうして信長は、室町幕府に代わって、朝廷を庇護することになったのである。」

 

 

何か、考えることは、天正時代は、大変なことだ。

元禄は、いい時代と、地震が、あった。

飢餓の時代も元号。

令和は、感染の時代だろう。

天正にするといいかもしれない。

天が、正しく。

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