黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

堂々巡りする道さえ

2015年12月01日 15時16分42秒 | ファンタジー

 マラマッド「魔法の樽」の読後感想を書こうと思ったが、途中で読み進めるのをあきらめた本について何か書くのは、思い上がりもはなはだしいので止めた。中途半端にした理由だけ若干述べようと思う。
 この本を読んでいて、思い込みが激しい登場人物たちの堂々巡りする魂と、私の魂との間に、相当大きなタイムラグがあることを感じた。私にも彼らと似たところがたくさんあるので、遍歴する心のことはよくわかるのだが、もうすでに、その心に同調して切なさを感じることはないのである。
 マラマッドを読むうちに、二年前に手術のため十日間ほど入院したとき、見舞いに来た友人が置いていったアメリカの小説を思い出した。ポール・オースターの「ガラスの街」。あのとき、「ガラスの街」を一ページ読んで、私はあっと声を上げた。以前、姪に勧められてこんなくどいのを読んだことがあった。オースターの作品一覧に「ムーンパレス」というタイトルを見て、少し気持ちが落ち込んだ。
 マラマッドの場合、悩みは具体的に、結婚相談所、部屋探し、小説家となる望みなどの形で描写されるが、オースターの執着心は別物だ。得体の知れない思い込みと焦燥と恐怖にさいなまれる魂は、堂々巡りの果て、自らの身を滅ぼそうとする方向に収れんするばかりで、その次のシチュエーションのかけらさえ見えない。病院では時間がたっぷりあったので最後まで読めたが、難行苦行だった。
 思い込みが激しいことに文句を付けているのではない。何としても、という強い思いなしに、物事はなにごとも成就しない。偉大な発明をしたとか、新しい土地を見つけたとか、蛮国を討ち滅ぼしたとか、人の食べないものを初めて食べたとか、いわゆる新しい歴史を開いた偉人たちは、いずれも人並み外れて思い込みが激しかったはずだ。また、人は若いほど思い込んだらなかなかとどまるところを知らないものだ。
 それに比べ、今の私はと言うと、他人の思い込みを笑いながら、自分の前には堂々巡りする道さえないことにまだ気がついていない。(2015.12.1)
コメント
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