黒猫 とのべい の冒険

身近な出来事や感じたことを登載してみました。

黒猫とのの冒険 その3

2010年12月01日 09時36分21秒 | ファンタジー
六 ヴァロン家の方へ
 以前、ヴァロンが、太平洋岸の小さな町に住んでいたころ、札幌にいたとのは、何度か家族でその町に遊びに行った。遠いところではなかったが、札幌方面から南下して太平洋岸に出ると、車窓から見える風景は海ばかりになるので、退屈していつも眠ってしまった。
 その町に向かう途中のこと、比較的大きな町の市街地を抜け、東へ数キロメートルばかり走った郊外に、今は使われていない倉庫や店舗が数軒並んでいる場所があった。国道の傍には、地面に落ちそうに低く不安定に立つ風変わりな看板があった。その赤地の看板には、「くいどころ黒猫家」と、太い黒文字で描かれていた。その看板の文字と色は、夜の闇の中を行き交う車のヘッドライトに浮かび上がったとき、目を反らせないくらい魅惑的な輝きを放った。とのには、その店がどこにあるのかすぐにはわからなかったので、草原をうろうろしていると、国道から一〇メートル以上も奥まった一角の廃墟の陰に、目立たない黒っぽいのれんがかかっていることに気がついた。
「店の名前どおり、黒猫が出迎えてくれるんだろうか。建物が古そうだから、相当年をとった気むずかしそうな真っ黒な猫が、店の真ん中にでんと陣取っているのかな。本物がいなくても、黒い招き猫くらいは座っていてほしいな。」
 とのは、胸の奥に燃え上がる好奇心を抑えられず、とうとう、くいどころ黒猫家の入り口に忍び寄り、立てつけが悪い引き戸に開いている小さな穴を通り抜けた。中に入ってみると民家を改造して作った店で、くいどころという名前とは趣が異なり、こざっぱりしたレストラン風の雰囲気だった。壁には白っぽい猫の写真が幾枚も貼ってあった。この店は母親と娘が共同で営む創作料理に近い料理を出す店で、食事のメニューのほかに数種類のスイーツもあった。
 海産物が好きなとのは、エビ、カニ、ホタテ、イカがたくさん入ったベーリング海風パスタを食べて満腹になった後、テーブルに置かれたメニューのスイーツ欄に記された「こむぎ」という名前に興味をそそられ注文した。本格派のグルメ猫を自称するとのは、特定の食物に執着する傾向がある普通の猫に対し、食の楽しみを知らない連中だと憐れんでいたが、他のネコたちからは何でも食べたがる雑食猫という評判をもらっていた。
 出された器をおずおずとのぞき込むと、オムレツに似た丸い形のプリンのスイーツで、色がはっとするほど白かった。黙って見つめている時間が少し長かったからだろうか、厨房の傍らの椅子に腰掛けた母親が、「うちの猫のイメージを象ったんです。」と言った。そのとき、部屋の隅の暗がりにある大きなまきストーブの横で、白い影が動く気配を感じた。
「こむぎ、お目覚めかい。」
 こむぎと呼ばれた猫は、真っ白に近い毛並みで、背中の一部が薄茶色を掃いた色をしていた。こむぎは、ゆっくりと声のする方に近づき、母親の膝に両前脚をかけ、抱いてほしいというように小さな声でニャーと鳴いた。とのは、その美しい食物をいつまでも眺めていたい気持ちがしたが、よだれが出るので舐めてみるとあまりにも美味しくて、ガツガツとふた口で食べてしまった。
「皆さんに喜んで食べていただいているんですよ。」
 とのの行儀の悪い食べ方をじっと見ていた母親が、うれしそうな口調で言った。

 母親の話によると、一人暮らしをしていて体調を崩し、病院通いに便利な町中に引っ越そうと考えていたところ、数年前、近所に捨てられたのか、一匹の猫がこの家に迷いこんで来たという。小麦粉のように白い毛並みのその猫にこむぎという名をつけた。ほどなく、こむぎは五匹の子猫を生んだ。母親は何かの縁だと思い彼らの世話をはじめると、次第に体調が改善し、以前やっていた食堂をもう一度復活したいと思うまでになった。娘は母の快復を喜び店の手伝いをしようと決心した。
「私が元気になったのはこの子のおかげなんですよ。」と、母親はこむぎをなでながらしみじみとした口調で言った。とのには、この食堂が、猫がもつ生命力と猫への愛情に満ちあふれた店だと感じられた。しかし、せっかく店の名前にひかれて入ったのに、黒猫家に白い猫しかいないのは変だという疑問が頭から離れなかった。
 そのとき、厨房から出てきた娘が、高ぶる気持ちを無理に抑えるような小声で母親に話しかけた。
「信じられないわ、来てくれるなんて。」と言っているように、とのには聞こえた。
 とのは、漠然とした不安に駆られ、「あのー、黒猫がいないのに、この店はなんで黒猫家なんですかね?」と恐る恐る聞いてみた。
 母親はうなずきながら、「昔の話になりますが、そのころ開いていた店には、かつお節が大好きであなたのように真っ黒な猫がいて、長いこといっしょに楽しく暮らしていました。その猫が死んだとき、考えもしなかったほど大きなショックを受け、私は体を壊してしまったんです。」と目を潤ませた。そして、とのの目をまっすぐに見て、いかにもうれしさを抑えきれないというように言った。
「おわかりになりましたか?今日のメニューには極上のかつお節が練り込んであるんですよ。こむぎが来てくれてうれしかったけど、ほんとはあなたが来るのをずっと待っていたのよ、黒猫家と名前をつけて。ねぇ、との。」
「エー! なんで、ボクの名前を知ってるの?」
 とのは得体の知れない恐怖に襲われ、思わず叫び声を上げた。そして、店の外に逃げ出そうとするのだが、さっきパスタとスイーツを大量に食べたせいで大きくふくらんだ腹が、どうしたことか床につかえて歩けないのだった。
 そのとき、「との、そんなにうなされて、だいじょうぶかい?」と話しかける暁彦の声がして目が覚めた。眠い目をこすると、そこは、くいどころ黒猫家の店の前に置かれた車の中だった。
「黒猫家という珍しい名前の食べ物屋があったから寄ったんだけど、今日は猫以外お断りの日なんだって。」と暁彦はいかにも残念そうに言った。
 とのは、異常に突っ張っている自分の腹を見て、ほんとうに美味しい食べ物にありついたことを思い出した。すると、恐怖心が消え失せ、この上ない満足感に包まれた。そして、夢のような美味しい食べ物を出すこの黒猫家に、今度はヴァロンや野良たち、せっかくやって来たのに入りそびれた暁彦や奈月といっしょに来てみたい、そうすればなにも怖くないし、ひょっとすると黒猫家は心から猫を愛する人たちが集まる店なのかもしれないと思ったのだった。
 そのような騒動があったが、目的地には一時間遅れで無事到着した。とのと対面したヴァロンは大変な喜びようで、とのをギャーと鳴くほど強く抱きしめて歓迎した。

 ところで、そのころヴァロンが住んでいた町には、何者かに頑丈な爪で斜面を引っかかれたような、海に向かって走る深い幾筋もの谷があり、人々の多くは谷の中の狭い平地に住んでいた。とのはヴァロンに連れられて、西の谷の斜面に登って東の方を見渡したとき、谷間には真っ黒な砂粒をまき散らしたように無数の点々が見えた。目をこらすと、その砂粒はふわふわと空中に浮かんでいた。
「あの黒い点々は何なの?」
 とのは、あまりの数の多さに目を丸くして聞いた。
「あれが有名なこの町のカラス軍団さ。」
 ヴァロンは、町を知り尽くしているとでもいうように、得意そうな顔をして言った。二匹のすぐ周りにもその黒い一群は近づきつつあった。とのとヴァロンは、カラスの鋭いまなざしを避けて口をつぐんだが、近くの木の枝にとまったカラスたちは、二匹に興味を持つどころか気もそぞろといった様子で、普段とは違う声のトーンで早口のおしゃべりを始めた。
「あの超低空飛行のゲンが、事故にあったんだって?」
「ああ、東町の幹線道路でとうとうやっちまったよ。」
 ヴァロンはゲンというカラスを知っていた。ゲンは、ヴァロンが二年前にこの町に来たころ生まれ、両親にかいがいしく育てられて成長し、今でこそりりしい様子をしていたが、ヴァロンがたまたま巣立ちの場面を見たときは、両親に餌をねだって親離れを嫌がる甘えっ子だった。そのゲンが、いつのころからか交通量が多い道路をねらって車の前方ぎりぎりを滑空する危険な技に挑戦するようになった。この飛行を仕かけられた車の運転者は、その瞬間目を固く閉じ、事が過ぎるのを待つしかなかった。ゲンは、危険行為を止した方がいいと仲間たちからいさめられていた。ヴァロンも老婆心ながら、「自分を大事にしなよ。」と忠告したことがあったが、彼は、「もっともっと強靱な体と飛翔能力がほしいんだ。」と、耳を貸すことはなかった。二匹がひそんでいる森林から、無数のカラスが一斉に東の空に向かって飛び立つと、辺りの空は一時的に真っ暗闇になり、沈うつなカラスたちの鳴き声がぐるぐると渦を巻くようにその闇の中をこだました。
 ゲンの亡骸は、彼の老いた両親と仲間のカラスたちによって山の住処まで運ばれ、ていねいに弔われた。ヴァロンといっしょに葬儀に参列したとのは、悲しさをこらえられず泣き出してしまった。「一途な性格のカラスだったんだね。」
 ヴァロンの反応は違っていた。「ばかなやつだ、まっとうに生きていけば、まだまだ立派なカラスになったのに。」と怒ったように言って激しく泣いた。
 内陸に行くほど狭くなる谷をさかのぼり、突き当たりの高台の上に出てみると、深い森林が開け、眺望のいい台地が広がっていた。そこには、ローマのコロッセウムの外観のように、屈曲した壁面を持つ豪華な三階建ての建物と、その向かい側に、客人の馬のために建てられた二階建ての清潔そうな厩舎があった。
 とのたちは、足音を消して、お城のような洋館の中を走った。大広間にさしかかると、そこでは五〇人ばかりの聴衆の前で、盛装した六人の男女が、一台のピアノの旋律に合わせてゴスペルソングを歌っていた。透き通った歌声の響きを聞いてうっとりしていると、歌い終わった若い女性が、ピアノの上に飾られていた花瓶からピンクのガーベラを引き抜いて、とのとヴァロンに一輪ずつプレゼントしてくれた。なんて美しくやさしそうな人だろうと、とのは黒光りする顔を真っ赤にしたが、それに気づいたのはヴァロンだけだった。
 建物の三階にかけ上がると、大きな窓の外には、見たことがないような広大な芝生の広場が、地平線を塞いでいる遠い山脈まで延々と続いていた。とのは、ふと、暁彦と奈月が見たという、万里の長城の北方に広がる大草原のイメージを想像した。その芝生には人を乗せて全速力で走る動物がいた。
「あれは?」とのはその景観に見とれて叫んだ。
「あれが馬という生き物だ。人を乗せて走ることができる動物の中では世界一速いだろう。でも、ハンデなしで本気に競走したら、猫のスピードにかなう動物はいないんだ。」
 ヴァロンは得意気に、しかし馬の耳には届かないくらいの小さな声で言った。彼らは芝生に下り、馬たちを追ってしばらく走った。
「ずいぶん遠くまで来てしまったな。」
 ヴァロンは息を切らして立ち止まった。
「だいじょうぶだよ。どんなに遠くに来ようと、みんな、ボクたちのことを信じていてくれるからね。」
 とのは、暁彦と奈月を思い出してそう言った。
「よし、雪をいただいたあの山まで、あとひと息だ。」
 ヴァロンは元気を取り戻して走り出し、とのも後に続いた。(この章了)

七 ヒゲともんじろうの日々
 ヴァロンが、太平洋岸の町から札幌に戻った翌年の平成九年五月、との一家は函館に移り、三年間、山裾の一棟二戸の平屋に住んだ。玄関前に出ると、正面には、左手の西の方に向かって大きく弧を描く函館湾が広がり、その湾の方に急傾斜で降りていく道路の先の青い水面には、大きな明るい色の何艘もの船が白い筋を曳いていた。猫の脚力なら、眼下の湾までひとっ飛びで行けそうに見えたが、それは函館山の裾野の高い位置から見ているとのの目の錯覚で、そこまでは二キロメートル以上の距離があった。家の周りは畑や小さな草原の緑が豊かで、とのは、春は虫取り、夏は畑の野菜や雑草の上のごろ寝、秋は枯れ葉の追いかけっこ、冬は家の中で日向ぼっこなどをして、のびのびと暮らした。
 猫の「ヒゲ」と「もんじろう」、他にも年取った雄や雌の野良猫たちとも知り合いになった。ヒゲは、とのが函館で最初に会った野良猫だった。その二軒長屋に住んで間もなく、とのは、玄関脇の孤立した部屋の方に何か気配を感じ様子を見に行くと、少し開いていた窓から入ったのだろう、部屋の中に見知らぬ猫がいた。「誰なの?」と走り寄ると、その猫は大きな声でうなった。うなり声を聞いた奈月は、「との、どうしたの?」と行ってみると、怖い顔をして威かくのポーズをとっていた侵入猫は、奈月の姿にびっくりして窓から逃げて行った。
 数日後、その猫は派手なパフォーマンスで再登場した。とのが暁彦といっしょに裏庭の草取りをしていると、丸いすばしっこい物体が目の前をすっ飛んで行ったと思ったら、そのすぐ後ろを、年輩の男性が「この野良野郎」と、どなり声をあげながら追いかけてきた。
「追いかけ回すから、きかん気になるんですよ。」
 とっさに暁彦は、年輩の人に向かって余計なことを言ってしまった。走ってきた男性はその言葉を聞いたためか、息が切れたためか、走るのを止めてふらふらと歩いて行った。とのは、先日家に入ってきた猫だとすぐ気がついた。後日、追いかけ回していた男性は猫好きの人で、近所の野良猫に餌をやっていることを聞いた。ただし、その侵入猫を除いて。その猫には自分の子をかみ殺したという容疑があった。雄猫は子育てする雌猫の発情をうながすために、子猫を遠ざけようとして、時には子殺しにまでエスカレートすることがあるという。その行為は本能から発しているとはいえ、人間の理解を得られるものではなかった。
 後ろの建物には、同じ時期に転勤してきた猫好きの人がいた。その人と奈月は、その猫の顔にちょびひげ模様があったので、「ヒゲ」と呼ぶことにした。ヒゲは、近くの家の犬小屋に住み着き、親切な犬からわずかばかりの食事の残りをもらっていた。犬の飼い主は知っていたが追い払いはしなかった。ヒゲは評判が悪いわりには人に懐いた。奈月は、栄養不足でやせこけた彼をかわいそうに思い、朝晩餌を与え始めると、彼の体は短期間で丸々と太った。ヒゲの肥満の原因を探っていくと、近所の人も朝晩餌をやっていることがわかった。ヒゲ自身は人をだますつもりはなかったが、いかにも腹減ったと情けない声で鳴き、猫好きたちの気持ちをとらえるのが上手だった。それからは二軒で朝晩分担して餌を与えることにしたが、ヒゲのあちこちで間食する癖は抜けなかった。ヒゲは、窓の外から家の中をじっとのぞき込んでいることがあった。とのに興味があるのではなく、家の中が気になるようだった。ヒゲに餌を与えていた近所の人は、じっと見つめる目の表情に根負けして家に入れると、居間の暖い場所で一、二時間寝ていくようになった。ヒゲは、きっと飼いネコの母親から生まれ、一定期間、家の中で飼われていたのだろう。
 ヒゲが一時激やせしたことがあった。普段活発なボス猫のヒゲが庭の片隅でじっと動かない様子に、人間だけでなく、周りの野良猫たちも心配そうに遠巻きに見ていた。人に馴れているようでも、凶暴性のある雄の野良猫を捕まえて病院に連れて行くことはむずかしかった。とのが様子を見に行くと、ヒゲはうるさいとでもいうように、とのに背中を向けてひと言も発しなかったので、「少しでも食べた方がいいよ。」と、餌を傍に置いてくるしかなかった。ほかにも流行病にかかったのか、いつの間にか姿を見せなくなる野良猫が何匹もいた。しかし、ヒゲは野生の力によって快復を遂げた。函館住まいが三年目になったとき、とのも野良たちから移ったらしく、口の中のできものを痛がって餌を食べなくなった。すぐ病院にかかり、人間用かと思われるくらい太い注射を打ち、約十日間の投薬を続けた結果、無事完治した。
 とのほど病院の世話になった猫は多くないだろう。とのは、五、六才ころになってから、常習的な便秘に悩まされるようになり、年を取るにつれてだんだんひどくなった。これもまた、肛門付近の骨格が未発達で狭いことが原因だった。便秘になると、家では浣腸をかけることしかできず、症状が悪化したら病院で肛門から便をかき出してもらったり、腸をマッサージして絞り出してもらったりした。いずれの手法も、とのには苦痛があった。十才のころ、函館の病院で人間でも服用できるミルマグ液という下剤を調合してもらってからは、便秘の回数は劇的に減った。

 函館に住んで一年くらい経ったころ、片目の潰れた見慣れない猫が裏庭に来るようになった。その大きな体の雄猫は、白っぽい毛並みが特徴的で、雑種の猫とは明らかに違っていた。人に懐いたので飼い猫だと思われた。奈月が「もんじろう」と名前をつけた片目の猫は、落ち着かない、消耗した様子で、毎日のように姿を見せた。ボス猫のヒゲは、自分の縄張りに入ってきたもんじろうを執ように追いかけ回し、憤がいしていることをあからさまに示した。体は小さかったが、野良のキャリアにまさるヒゲの攻撃は激烈だった。もんじろうにはその圧倒的な力に対抗する気力が残っていないように見えた。
「どうしていいかわからないんだ。」
 神経をすり減らしたもんじろうは、とのの前で倒れてしまいそうに大きなため息をついた。ヒゲの攻勢におののいているというよりも、自分にはもう帰る家がないという現状を受け入れることに納得できず、苦しんでいる様子だった。とのは何もしてやれない自分が情けなかった。
 もんじろうが現れてしばらく経った天気のいい日の昼下がり、暁彦が家の横で車を洗い、その傍らでとのがスズメを追いかけていると、中学生くらいの女の子から、「この辺で片目の猫を見たことがありませんか?」と、突然声をかけられた。彼女が言うその特徴は、明らかにもんじろうのことを指していた。知っていると答えると、彼女は缶詰をひとつ差し出して、大好きな缶詰なのでやってほしいと言った。とのは、彼女が飼い主の家族だと直感した。
「夕方になったら、ここにやって来るよ。」
 暁彦が車を洗う手を休めこう言った。すると、彼女は、すぐにでも立ち去らなければならないという切迫した表情になったが、じろじろ見ている暁彦に行く手を阻まれてその場に凍りついてしまった。とのは、今にも泣き出してしまいそうなその様子を見ていると、「どうして連れて帰れないの?」と口にすることがためらわれ、彼女の足許にかけ寄って体をこすりつけた。そのとき彼女は我に返ったように、缶詰をとのの鼻先に置いて、その場からかけ足で立ち去って行った。
 野良とは違い、人を恋しがるもんじろうを飼おうとした人がいた。猫のトイレや寝床まで用意し、何度か家の中に招き入れたが、彼をつなぎ止めることはできなかった。成長した雄猫がほかの雄の縄張りに侵入して平和裡に暮らすことはやはり困難だったのだろう。網走に住んでいたとき、知り合いの飼い猫が、大人になってから突然家出し、それほど離れていない場所で野良の生活に入ったという話を聞いた。連れ帰ってもすぐ野良のすみかに戻ってしまい、ついに家に戻すことをあきらめた。その後も近くを通ると、「ぼくだよ。」と、元の飼い主に挨拶をしたそうだが一度も帰ってくることはなかったという。
 二匹の数度にわたる戦いが目撃された後、もんじろうは姿を消した。もんじろうがいなくなってしばらく経ったころ、とのがいつものように広々とした港を眺めながら、函館の旧市街の石畳の坂道を散歩している途中、観光客が通らない裏道に面して古い家が建ち並ぶ区画にさしかかったとき、狭い路地をとぼとぼ歩くもんじろうによく似た猫の後ろ姿を見た。落ち着き場所をやっと見つけたのだろうか。しかし、その猫の尻の肉は落ち、毛づやも冴えなかった。とのの気のせいかもしれなかったが、疲れ切った様子に見えた。「もん」と叫んだとき、彼はちょうど、路地の角に建つ傾きかけた木造の洋館を覆う深い草むらの中に隠れてしまった。

 暁彦は、家から一キロメートルくらい離れた職場まで毎日徒歩で通っていたが、通勤経路には交通量が多い片側二車線の道路があって、手押し信号がある横断歩道を青で渡るときでさえ慎重になるほど、多くの車が高速で行き交っていた。とのは、普段厳しいことを言わない暁彦から、「この道だけは絶対渡ってはいけない。」と聞いていたので、その言いつけを守っていた。
 もんじろうを狭い路地で見かけてから数ヶ月後の初冬の季節を迎えたころ、とのは、見回りの途中、例の危険な道の反対側にある食品スーパーの方を見ると、建物の陰にもんじろうのたたずむ姿に気がついた。彼は、居場所を探して、その道路を夜のうちに渡ったのだろう。そのとき、スーパーから出てきた男の店員が、もんじろうを見つけて、「この泥棒猫め。」と言い、腕を振り上げた。すると、もんじろうは驚いて隣の建物の軒先まで三、四メートルの距離をすばやく一目散に逃げた。男を警戒して走った身のかわし方は元気そうに見えた。ということは、彼がおかれた環境がいかにつらく不本意なものでも、自分の運命に立ち向かおうとする気力を取り戻したということなのだろう。とのは、懐かしさのあまり、二度三度、もんじろうの名前を呼んだが、彼はとのの方をちらりと見ただけで、それ以上の反応はなかった。心残りだったが、そこが彼の落ち着ける場所であってほしいと祈り、彼に手を振って立ち去ることにした。それが、もんじろうの姿を見かけた最後だった。

 平成一一年九月、網走から、知り合いの悲報が函館に届いた。暁彦と奈月は、当時、岩見沢にいたヴァロンの家にとのを預け、網走に向かった。秋だというのに三十度を超える暑い日が続いていた。とのは、初めて入った岩見沢の家で、日中、ヴァロンやえりな、妹のはんなたちと遊んで気を紛らわせたが、夜になり家族が寝静まったころ、急に暁彦と奈月がいないのが寂しくてたまらなくなった。玄関の扉に向かって「父さん、母さん」と鳴いてみたが、鉄の扉に跳ね返った自分の声が、家の中にごうごうとこだまするだけだった。家の中をうろうろしていると、トイレの前のゴミ箱から、二人が毎晩のように飲んでいるビールの匂いがすることに気がついた。
「父さん母さん、大好きなビールがあるよ。早く飲みにお出でよ。」
 とのは、ゴミ箱に捨てられた空のビール缶を一個、二個とくわえて居間の真ん中に運び、そこでじっと待った。翌朝、ヴァロンの家族は、トイレの前のごみ箱から居間にかけて点々とついている筋の先に、転がったビール缶を抱きかかえて眠っているとのの姿を見た。
 暁彦と奈月は三日振りにとのの許に戻った。ビール缶事件を聞いていた奈月が、とのの姿を見るやいなや「との、との」と何度も呼びかけたが、とのはプィと横を向いたまま身じろぎもしなかった。それは小さな子供が大好きな母親にかけ寄りたいのを我慢してすねている姿そのものだった。
 平成一二年四月初め、暁彦の転勤が決まり、三年間生活した函館を去らなければならない日が来た。遊び場が少ない冬の憂うつから解放され、暖かい函館の春を楽しもうと思っていた矢先に、雪がまだ残る北海道の奥地に行くのは残念だった。毎日やって来るヒゲに、二食の餌を分担して与えていた知り合いの家族もまた、行き先は違ったが同じ時期の転勤だった。もんじろうが去ってから、一帯は平和な秩序を取り戻し静まり返っていたが、食糧調達の事情は相変わらず厳しく、二ヶ所の餌場が消滅することは、ヒゲだけでなく他の猫にとっても相当のダメージとなることが予想された。旅立ちの当日、ヒゲが大好きな缶詰を一缶、紙皿に盛って家の陰に置くと、彼はおいしそうにいつもの通り一気食いを始めた。その様子を見ながら、とのたちはそっとその場を離れた。数年後、そこを訪れたことがあるが、ヒゲや顔見知りの猫たちに会うことはなかった。(この章了)



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