BIN山本の『映画にも程がある』

好きな古本との出会いと別れのエピソード、映画やテレビ、社会一般への痛烈なかくかくしかじか・・・

ワカラン

2010年02月22日 | 映画
 解かるけど「ワカラナイ」は分らない映画だ。
全体のストーリィには異存はない。あんなこともアリだとは思う。しかしそもそも映画
に仕立てる意図においては、観客に分るように表現すべきだろう。分かる人だけ分かれ
ばいいというのは小林 政広監督のいつものやり口だが、いつもそれが正解になるとは
限らない。観客への突き放しかたが、どうだこれくらいは想像力を働かせろ!と言わん
ばかり。前作「愛の予感」では、男がコンビニから買ってきたモノが何であるかを分ら
せなかった。(携帯電話だったらしいのだが、それを分らしめるカットを入れたとして
も映画的な不利益にはならないのに)今作もまた展開上重要な手札版の写真をロング
でしか見せない、ケチのくささだ。なにかこう頑なな方法論に陥った、了見の狭さが
全体を支配している。
 1シーン1カット主義があまりにもあざとい。室内から室外へのカメラ移動ショット
もレンズの露出はそのままで、ゆえにそのシーンは露出オーバーになる。それは前作
の「愛の予感」においても同様だ。それがどれほどの意味か、アタシは戸惑う。
 母親の病院代や簡素な葬儀費用がない少年(母子家庭)のありがちな貧乏は、映画
全体への映画的貧乏性へ発展した。別れた父親役(?)としてでた小林監督は、誰が
みても明らかなミスキャスト(ジジくさすぎ)で、ほかに適役者は居なかったのか。
豪邸と、妙に若すぎのいい女と、ガキひとり、これも話しがつながってみえない。
ラストの父親(?)に走り寄るシーン、長い一本道は蛇足に過ぎる。

 冒頭、テーマ曲一つ分の歌の尺で延々と黒画面がつづく。あれは絵画展の、額に入
れたカガミのごとし禁じ手だ。厳しく言うなら、映画を撮ることの放棄であり、サボ
タージュ。それに17才の年端もいかない少年に、あんな芝居のクセをつける演出は、
彼のこの先の役者人生が心配になる。
 アタシは「愛の予感」を激賞しただけに、この落差に うむーなのだ。

 「ワカラナイ」 監督・脚本 小林 政広  2009年  カラー104分 
  ( 主演 小林 優斗  モンキー タウン プロダクション )