BIN山本の『映画にも程がある』

好きな古本との出会いと別れのエピソード、映画やテレビ、社会一般への痛烈なかくかくしかじか・・・

誰かが捨てた本

2019年06月30日 | 古本
そりゃあ毛沢東の文化大革命はひどいもんだった。天安門広場事件だって、その場で銃殺刑と同じだ。
だからといって石 平さん、日本を買いかぶり過ぎている。報道の自由度だっていま日本は世界180
カ国中67位だ。官僚もメディアも官邸ばかりみていて、忖度政治がまかり通っている。これでも日本
の民主主義は素晴らしいと?このことを石さんはどう思うのか聞きたい。日本の歴史や文化、礼節など
褒められても、アタシやぁ背筋が凍る。中国と比較したばかりの論述はへきへきだ。アタシゃなんだか
日本が恥ずかしい国に向かっている気がして逃げ出したい。石さん、日本に忖度かよ。
この本アタシに覚えがない。だれかが置いていったのか捨てたのか、よく分からんが一応読んだ。
 『私はなぜ「中国」を捨てたのか』 著者 石 平(セキヘイ)  WAC 定価 920円+税
  ( 2019年3月28日 初版発行 ) 
 ※アタシが買った本ではない時、カテゴリーはすべて古本に入れます。

格 差

2019年06月27日 | 古本
報道カメラマンには常に危険が伴う。戦争や紛争地域、災害報道もそうだ。1991年6月3日の雲仙普賢岳の火砕流に
巻き込まれて亡くなった40名もの中にいたNHKの矢内万喜男さんもその一人で、お気の毒で言葉も無い。
NHKという組織全体と、手厚い看護のなか22日後ついに息絶えた。これは妻の矢内真由美さんが書いた被災直後から
亡くなるまでを書いた夫へのレクイエム。まことに痛ましい。

この本を読んでいるなか、アタシはある想いにかられた。カメラマンという被災格差だ。
矢内さんはNHKというバックのなか、組織の上層幹部や多くの上司や同僚、医療体制から手厚くもてなされた。そのこと
にはなんの文句も無い。周囲は気を最大限使い、快復を願われた。当たり前のことで矢内さんご夫婦にはなんの落ち度もない。
ただ一方、撮影現場で怪我をしても労災にすらかかれないという、フリーカメラマンの実態もアタシは身近に知っている。
その後の病院治療費、リハビリなど全てが自腹になった。玄孫系的下請けカメラマンの怪我や命など、その責任はたらい回し
され、結局うやむやにされた。怪我と弁当は自分持ちと言う日雇い土方の掟だ。(土方経験者のアタシが言うのです)
またプロ野球のカメラマン席での撮影中、ファボールが飛んで来た。咄嗟にカメラマンはレンズも本体も守ろうと、手で庇
った。本能的にカメラマンはカメラを守ろうとする。地べたに直接置くことさえしてはダメダという教育は先輩から厳しく
身体にしみついているのだ。ボールは左手の甲を直撃した。すると甲に有る細い骨が骨折となり、激痛が走ったがそのまま
撮影を続けた。その後のことは推して知るべしだ。機械が壊れた方が安かったと言われたそうだが、なんの保証も無い。

かくして大放送局とフリーのカメラマンには収入を含めて、怪我や命に大きな隔たりがある。しかし好きだからやっている
というカメラマンの世界。映らない映像の裏には多大な格差があるという事を、皆さんには知っていて欲しい。
 「夫31歳、カメラマン。なぜ、雲仙で死んだの。」 著者 矢内真由美  KKベストセラーズ 定価1200円+税
  ( 1991年11月5日 初版発行 )

ダイオキシン

2019年06月25日 | 写真集
日本の敗戦後の1946年の1月、フランスとベトミンとの全面交戦状態から始まったベトナム戦争は
1973年のパリ協定によりニクソンはアメリカ軍を撤退させ、1975年4月30日サイゴンが陥落
し終戦となった。これにはタイ、ラオスやカンボジアなどの隣国の複雑な軍事事情もからみ、この一帯
は戦況にまみれた。だがなんと言ってもベトナムへのアメリカ軍の大量の軍事力投入はすさまじかった。
沖縄からも昼夜を問わずB52が飛びだった。そしてジャングルの枯葉作戦で撒かれた枯葉剤に大量に
含まれたダイオキシンはいまだにその後遺症をのこしている。その地で生まれたり育った人には癌の発生
や奇形児の出生が圧倒的に多い。それはベトナム人だけに限らず作戦に携わったアメリカ兵や韓国兵にも
広がっていた。双胎児はベトちゃん、ドクちゃんだけではなかったのだ。死産した奇形のホルマリンにつ
けられている胎児の写真を正視するのさえ厳しい。
この写真集は概ね1975年の戦後から撮られたもので、1980年代までを集積したもの。その残虐性
は戦時とかわらない。軍上層部は枯葉剤などは人体になんの影響も無いと云っていた。最近もよくこの言
葉を聞いた「ただちに人体に影響はない」と。

 写真集「戦場の枯葉剤」 グラフィック・レポート 中村 梧朗  岩波書店 定価2800円
  ( 1995年7月24日 第1刷発行 )

お前が行け

2019年06月15日 | 写真集
沢田 教一さんも戦場に散ったひとりの戦場カメラマンだ。1936年2月22日 青森市生まれ。
青森高校では寺山 修司氏と同級で、映画などは見に行ったが特別これといった付き合いはなかったと。
ベトナム戦争はカンボジアにも及んだ。1970年10月28日、タケオ州チャンパクへの帰途、
プノンペンの南34キロ地点の国道2号線上、銃弾が右の耳の下2発、胸に4発の弾丸が撃ち込ま
れていたという。愛用のライカは盗まれていたと。34才と約8ヶ月、まだ若かった。
ピュリツァー賞「安全への逃避」の授賞式後、沢田さんはすぐにその親子2組を探しだす行動にうつった。
やがて無事に生きていた2組の親子と再会、賞から受けた賞金を分け与えた。

どうやら戦争好きなアベ君たち一味と世界の為政者、泥に足をとられ瓦礫にけつまずき血にまみれた死体の
なか、息をきらせ震える手で銃をうて。お前たちに真っ先にそういう戦場に行ってもらおう。そしたら戦争の
無益でバカらしいことを知るだろう。

CAPA

2019年06月13日 | 写真集
今までキャパに関してはベトナム戦争の取材中、地雷に触れて死んだと、大雑把な事しか知らなかった。
もう少し詳しく調べると、こうだ。
1954年5月25日 北ベトナム ドアイ・タンから1キロの地点にある小川の堤防に登った際のこと。
<爆発でできた土の穴から1フィートばかりのところに、滅茶苦茶に左の脚を吹きとばされたキャパが
仰向けになって倒れていた。胸にも深手を負っていた。彼の左の手はカメラをがっちりつかんでいた。
私は彼の名を呼び始めた。2度、3度、深い眠りを邪魔された人のように、彼の唇がかすかに動いた。
それが彼の最後の動作であった。時間は午後3時10分であった。>
キャパの最後の報道任務に行を共にしたタイム・ライフ記者 ジョン・メックリンの文章から。
ついさっきまで、冗談をとばしていたキャパの最期だが、戦場カメラマンの最期はどの人もすざましい。
 「戦争 そのイメージ」 写真 ロバート・キャパ  井上 清一訳 ダヴィッド社 定価3800円+税
  ( 1974年8月1日 初版発行  2003年7月15日 10刷発行 )

続 編

2019年06月06日 | 新 刊
これもいわば続編で「医学としての水俣病・三部作」と「不知火海」のシナリオ採録。分量が前作と同じに長い。
映画はトータルすると朝から晩までの長さ。アタシはもう何を言ってもおこがましい気がする。
してもなお<「これが水俣病のすべてだ」という映画がいつ出来るか、今は夢想の外である。>なんという謙虚で
深いこころだろう。感服するしかない。
撮影風景の中に同録カメラ 仏製エクレール16mmがみえる。
 「逆境のなかの記録」 著者 土本 典昭  未來社 定価3800円+税
  ( 1976年10月30日 初版第1刷発行 2004年7月20日 新装版第1刷発行 )

生きものの仕事

2019年06月01日 | 古本
遅らばせながら読んだ。初版は1974年6月の発行で、2004年6月この新装版が発行された。
400ページもあり字も小さく、重い本を読むのには相当時間がかかった。
石牟礼 道子さんと並んで土本さんと言えば水俣病のドキュメンタリー映画となってしまう。
71年初期から「水俣ー患者さんとその世界」以後、連作として水俣病とかかわり続けている。
映画と共に書き続けた一連をまとめたもの。その深い洞察力と筆力には驚くばかり。映画人はかく
あらねばならないということだろう。
映画は水銀公害発生元のチッソのグロテスクな組織も、分断される患者側人間の弱さも正面から
暴かれる。
水俣病には終わりがない。いまも発症者が続き、裁判闘争も続いている。

70年当時、フィルム映像と音のシンクロには余計な手間がかかる時代、その後同録カメラがでて
きて、その機材費のかかりようと、楽になった喜びが同時に書かれている。
カバーの裏側、写真には重い木製三脚とBOREX16mmカメラが映っている。レンズは10倍の
ズームレンズが1本。基本はこれだけの装備で勝負していたことが窺える。
 「映画は生きものの仕事である」新装版 著者 土本典昭  未來社 定価3500円+税
  ( 2004年6月30日 新装版第1刷発行 )