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BIN山本の『映画にも程がある』

好きな古本との出会いと別れのエピソード、映画やテレビ、社会一般への痛烈なかくかくしかじか・・・

新・切り口

2008年12月27日 | 仕事
 今年の便りで嬉しかったのは、元同僚 E氏の次の一文だ。
四月の春めいた日に届いた、独立しましたという挨拶状だった。
なんだか自分の事のように誇らしく、感動もした。
当ブログにて紹介することを、E氏が許してくれることを信じて引用します。

 『最初の10年は、掲げられたバー越えることだけを目指していました。でき
るだけ高く、できれば速く、美しく、華麗に。その次の10年はただ跳ぶことよ
りも、どんな風に越えられるのかを考えました。そして与えられたバーを新しい
場所にかけてみました。その中でたくさんのことを学んだ気がします。そんな経
験に恵まれ続けてきたのも、本当に多くの方々に育てられ、助けられ、大きな力
に守られきたおかげでした。だからこそ、いつか自分でも些細ながらそういった
人たちの力になりたいと考えてきました。たとえばそれは作品というよりも仕事
として。そして身近な人を喜ばせることよりも見知らぬ誰かへ届けること。

今、映像を取りまく環境は大きな変革期にあります。その中で、かつて時代を切
り開いてきたプロフェッショナルたちはその役割を終えようとしています。果た
して彼らの役割は本当に終わったのでしょうか。自称マルチクリエーターという
妥協。耐震偽造、食品偽造となんら変わらない事がすでに表現の現場で行われて
いる現実。そんな時代でさえプロフェッショナリズムを貫こうとする人たちの力
になるために、今、ニューエッジは映像をデザインする(企む)という新しい原
点を定めリスタートします。映像のコミュニケーションにはまだまだ無限の可能
性があります。立ち止まることなくこれまで歩み続けてこれた誇りと、新しい世
代にこれからの役割を託す勇気と』

 こういう文章には、アタシはすぐ感激するのだ。誰もが、組んでみたい相手と
して、またその彼の物事を読む目の確かさや、鋭さを想像するだろう。
早速お祝いのメールを、アタシは E氏に出した。
自分には断って、E氏には断らず ここにその一部分を―。

『経験を分析し、整理し、思慮された挨拶状の文章は、
 あまたの凡百な映画やドラマより、心撃ちます。
 解き放された矢のように飛び、漂い、着地する「志」がみてとれます。
 表現者として作品か仕事か、ではなく、映像を企む「志」こそ重要だと
 思うのは同感です。いわば映像を企むことはなにも映画監督や
 CMデレィクターだけの仕事では無いはずで、
 スタッフ一人一人の手の中にあるべきなのです。』

 今年もとりあえずこの一年を無事に生きて過ごした。いまこの業界は未曾有の
不況に苛まれている。果たして来年はどんな一年になるのか。
また、どんな便りがきて、どんな便りをアタシが出せるのか。ウム―・・・。

3月31日の大雪

2008年03月31日 | 仕事
 2006年3月31日、丁度2年前の今日の事だった。
アタシと照明部の二人は、朝 帯広へ向かって出発した。
ある作品で、馬の出産を撮る為 札幌からの前乗りだった。
通常 帯広までは車で4時間の距離だ。朝からの雪は本格的に降り出して、高速の
道東自動車道は追分町のあたりから通行止めになった。一般道に下りて国道274
号線を走る。日勝峠も通行止めになり、日高町からは大きく迂回し狩勝峠を行く
しかない。真冬と同じ雪は容赦なく降り積もり、峠の道中では数限りない事故を
目撃した。北海道中、その冬最後の大雪にみまわれたのだ。
それでもどうにか 普段の3倍、12時間かかって宿に着いた。
 翌日からは出産シーンのため、毎夜 馬の厩舎に張り付いた。たいがい馬は
夜中や明け方に生れることが多いからだ。しかしやはりだ、そんな時に限って
予定日が来ているどの馬も、その気がない。一週間粘ったが、2回目だったこの
張り込み待機作戦も、カラ振りに終わった。
 それは、この作品の行方を象徴する出来事にもなってしまった。
その後何度も通って撮りだめした、いろんなシーンの素材はすべてムダになった。
つまり、その作品はお蔵入りとなったのだ。
元請けだった東京の制作プロダクションは、そのあとに倒産して、昨年のきょう
3月31日 アタシは14年間所属していた 事務所を退いた。
この先も毎年の3月31日、あの大雪と あの作品のことを思い出すのだろうか。
そして あの日と同じように いま西野に 雪が降っている。

天 売 その③

2007年10月27日 | 仕事
島の中を歩いていると、こんにちわと声を掛けられる。
お店のオバさんの 話が止まらない。
偶然と言うべきか、天売高出身者にも出合った。
ロケハン資料として、撮ったビデオを3分位に編集した。
なんにんかの人に送って、みてもらつた。
結局、アタシが出来ることは ここまでなのだろうか。

北のテレシネ職人 BIN山本 8mmフィルムのビデオ工房サッポロ

天 売 その②

2007年10月26日 | 仕事
    作品への覚えがき
 
■ ト書き風に書き表わすなら、このシーンではじまる。
 『冬、空は白く海に重なり、地底にまでもぐり込んでみえる。
  吹雪模様の中、校門前に二人の男。
  人待ち風。
  やがて登校してくる生徒一人。一人。一人。
  短い言葉がやり取りされた。
  三人を迎えた教師、校舎内へと消えていく。』

教師はほぼ毎日、校門前で三人の生徒を出迎える。
なん年も続いている、普通の習慣。遅刻を諌めたり、服装指導などの
必要性があるからではない。
全てはこのシーンに集約され、帰結し象徴される。
しかしその習慣が、普通であることの意味を考える。
あるいは校舎内外の坦々とした、出来事でもない日常を記録する。
だからといって無用に凡庸な画を撮り列ねる事とも違う。
およそ少なくとも三年間、空気を感じ、距離を計り、撮る事をたくらむ。
その結果にナレーションは極力少なくていい。
映像で表現できなかったものに、言葉を添えても伝わると思えないからだ。
そしてまたスタッフは少ない程よい。
編集も含め、撮り手として一人称の責任と表現が可能となる。
もし、少数ゆえの不備があるとしても、多数ゆえの不自由はゴメンだ。
ドラマやCMの撮影も多く経験したが、向を逆にして撮りたいといえば
それはもうスタッフは大騒ぎとなるからだ。
許されるなら、教室の後ろの方にもう一つ机を置かせてもらい
一緒に授業を受ける事から出発したい。
対象との距離を縮めるというよりは、一対一で対峙する授業にカメラの存在を
意識させたくないからだ。
その狭い空間は、撮る事を目的としている自分の内側からも、そして
被写体である生徒や教師からも、強烈な意味の問いかけが発生するだろう。
そこに戸惑い、たじろぎうろたえる事を恐れず、隠さない。
あらゆる設定と編集イメージとの相克に苦しむだろう。
だとしても、撮っていく事の喜びの方が 遥かに勝る。
そしてそれは恐らく、三年は続くだろう。

日本の最北に近い島 天売島。そこに生きる高校生たち。
厳しく静かな島の 青春グラフティー。
           
2007年6月20日

北のテレシネ職人 BIN山本 8mmフィルムのビデオ工房サッポロ

天 売 その①

2007年10月25日 | 仕事
 今年の5月末、天売島へ行った。
新聞にでたある小さな記事が目にとまり、自分の目で確かめたくなったからだ。
そして企画書にまとめてみたが、どうにも進展がない。
ブログ上に公開することで糸口を探りたいのだが、勿論この世界 甘くは無い。

   
   テレビ・ドキュメンタリー企画
『北海道羽幌町立天売高校ー静かに、三年間の記録ー』


     まえがき
 407人。これは乗り合わせた列車の乗客数だったり、演劇や映画の一回
あたりの客数だったりするだろう。あるいは都会なら、大きなマンションの
住人の数だったりもするだろう。
 北海道の日本海側に面する羽幌町、その沖合い27kmにある周囲12kmの
小さな小島 天売島。この島の人口が407人(07年4月末現在)なのだ。
およそ300年前の「元禄御国地図」に記載があり、大正、昭和のニシンが
獲れたころ、島の人口は3000人近くにもなったという。
その後は、漁業や観光に陰りがみえ始めると、島の人口は徐々に減り続けた。
生活環境が厳しい辺境ほど人口減少はとまらない。
 冬、海が荒れだすと今でも数日フェリーが止まり、生活物資さえ届かない。
しかしそうした自然の厳しさは、遥かの有史から海鳥たちにとっては楽園だった
のかも知れない。約100万羽の海鳥が飛来し、繁殖地として生息する。
そしてその辺境こそが、この学校を生み、育まれ守られている地域の事情であり
住民たちの生活文化として昇華したものとなった。
「羽幌町立北海道天売高等学校」今、そのあまりにも小さくなった規模の
普通科高校(定時制)は、各学年1人で全校生徒は3人となっている。
 地方の過疎や少子化に伴い高校の再編統合が進むなか、この天売高校の
ありようは奇跡にもみえる。
決して豊かな財政でもなく、かって3万人を超えていた人口は、羽幌炭鉱の
閉山にも伴い、いまや8700人程にも減っている。そんな町が、3人の生徒に
対して12人の教職員を有する学校を維持し続けている、その「志」とはなにか。
ここに通う生徒は、ことさら特異なキャラクターの持主だったり、あるいは
何かの事情を持って他の地域から進学して来た訳ではない。
むしろあたりまえのように、無遅刻無欠席を坦々とくり返し、昼間の仕事を
しながら自宅から通学する。
若者が島で生き、その生活の中で「学ぶ」という事の原点がここにある。
在るとしてこの目で確かめたいのだ。
 2007年4月14日、新聞の夕刊に載った、100文字にも満たない
小さな記事が目に止まった。
〔一人。4年連続で新入生が一人。〕そんな高校が在ることに驚き、そして
なんだか感動した。校舎や授業風景が頭に浮かんで想像できたからだ。
終戦後に生まれ、教室には溢れんばかりの人数が居た記憶しかない
世代にとって、これはなんという恵まれた教育環境であろうかと思う。

 翌5月の末に、札幌から4時間 車を走らせ、95分フェリーに乗り、
20分歩いて校舎に辿り着いた。

北のテレシネ職人 BIN山本 8mmフィルムのビデオ工房サッポロ

                             つづく