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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (191)
題しらず よみ人しらず
白雲にはねうちかはしとぶ雁の かずさへ見ゆる秋の夜の月
題知らず (詠み人知らず・男の詠んだ歌として聞く)
(白雲に羽うち交わし飛ぶ雁の、数さえ見える秋の夜の月・明るいことよ……白けた色情に、端根、端音うち交わし、浮き天ゆく女の、かりの数さえ見える、厭きの夜の月人をとこ・尽きゆくことよ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「白…色なし…しらけた」「雲…空の雲…心に煩わしくもわきたつもの…色情・色欲など…広くは煩悩、人の心にはいつも八雲が立つという」「はねうちかはし…羽うち交わし…男女の仲むつましいさま」「はね…羽…端根…おとこ…端音…はしたない声」「うちかはし…打ち交わし…射ち交わし」「うち…接頭語…射ち」「とぶかり…飛ぶ雁…浮き天をゆく女」「雁…鳥…鳥の言の心は女…狩り・刈り…めとり…まぐあい」「数…雁の数…見る数」「見ゆる…見えている…見ている」「見…覯…媾…まぐあい」「秋の夜の月…飽きの夜の月人壮士…厭きの夜の月人壮士」「秋…あき…飽き満ち足りる…厭きあきする」「月…月人壮士…月の言の心は男…突き・尽き…体言止めで余情がある」。
白雲に羽うち交わし飛ぶ雁の数さえ見える、秋の夜の月影・明るいことよ。――歌の清げな姿。
白けた色欲に、端根、はしたない音、うち交わし、浮天とびゆく女、かりした数さえ見える、厭きの尽き人おとこのありさまよ。――心におかしきところ。
これより月の歌が数首連なる。歌の様(表現様式)を知らず、月の言の心を「壮士・をとこ」と心得ない人は、和歌の「心におかしきところ」が全く見えないだろう。
古今集の文脈で、「月」は「壮士・男・おとこ」であり、「つき」は「突き・尽き」と戯れていたことを心得ないと、この時代の言語圏外の人である。まして、優しい月光や、ムーンライトセレナーデやハニームーンの、優しく甘い女性的イメージのままに、万葉集や古今集の歌の「月」と言う言葉を聞くならば、愚かな言語観の人である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)