帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」(七十)狩の使より帰り来けるに

2016-06-26 18:46:19 | 古典

               



                             帯とけの「伊勢物語」



 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。やがて、清少納言や紫式部の「伊勢物語」読後感と一致する、正当な読みを見いだすことが出来るでしょう。



 伊勢物語
(七十)狩の使より帰り来けるに


 むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、狩りの使より帰って来たときに、おほよどのわたりにやどりて(大淀の渡し場に宿をとって…大いに淀んだ辺りに宿って)、いつきの宮のわらはべ(斎宮に仕える童子…井付きの身やのおとこの子)に言いかけたのだった。

 みるめかる方やいづこぞさをさして 我に教へよあまの釣舟

 (海藻刈る潟は、何処かな、竿を指して我に教えよ、海人の釣り舟よ……見るめ狩る方は・かりの感どころは、どこなのだ、さお指して・小さなお指して、我に教えよ、あ間の吊りふ根よ)

 

貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る

「狩の使…諸国につかわされて野鳥を狩する役人…前章の男」「おほよどのわたり…大淀の渡し場…宿場…褒められぬ女たちがたむろする所」「おほ…大…ほめ言葉ではない」「よど…淀…女…よどんでいる…ほめ言葉ではない」「いつきの宮やのわらはべ…斎宮に仕える童子…井付きの身やのわらわ…おんなの吊りふ根…あ間に付いているの小さなおとこ」。

「みるめ…海藻…見るめ」「見…覯…媾…まぐあい」「め…女…おんな」「かた…潟…方…方向…方法」「さほ…棹…小お…小おとこ」「さ…美称」。

 

船着き場には、春のもの売る遊び女が居た。世の中に「必ずしもあるまじき業なり」と(土佐日記二月十六日)記されてある。ここでは、その遊び女を「大淀」と言った。男の歌は、欲求不満を吐きだしたのである。

 

  在原業平よりほぼ三十年前の人の小野篁の歌に、「あまのつりふね…女の吊りふ根…あまに居つく小さなおとこのこ」と戯れる例がある。流罪となって、船に乗って流される時に詠んだ歌(古今和歌集 巻第九)。

 わたのはらやそしまかけてこぎでぬと 人には告げよあまのつりふね

 (海原、八十島めがけて漕ぎ出たと、都の人には告げよ、海人の釣り舟よ……腸の腹、八十肢間かけてこぎだしたと、人には告げよ、あ間の吊りふ根よ)

 

 「わた…わたつみ…海…はらわた…腸」「はら…原…腹」「しま…島…肢間…女」「こぐ…漕ぐ…ふねをすすめる」「人…人々…女」。

 
 海人の釣船に語りかけているのは清げな姿。言の戯れに「心にをかしきところ」が顕われる。小野篁の歌は、このをかしさを含む歌全体から、流罪となった憤懣を都の人に投げつけたように聞える。

 

伊勢物語の歌も古今和歌集の歌も、肝心な「心のおかしきところ」は秘伝となって、江戸時代には埋もれてしまった。今では、この両歌の「清げな姿」しか見えなくなった。誇るべき高度な文芸の氷山の一角しか見えていないのである


 (2016・6月、旧稿を全面改定しました)