帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (四十六)  いとうるはしき友ありけり

2016-06-01 20:08:34 | 古典

             



                         帯とけの「伊勢物語」


 

紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。

 

  伊勢物語(四十六)いとうるはしき友ありけり

 
 
むかし、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、いとうるはし友ありけり(とっても仲のよい友がいた…とっても潤わしき伴が身に付いていた)。かたときさらずあひ思ひけるを(片時も心離れることなく相思っていたが…片時も離れることなくおや子のように相思っていたが)。ひとのくにへいきけるを(友が・地方の国へ行ったので…伴が・女のくにへ入ったので)、いとあはれ(とっても哀れと…あゝ感激)と思って別れたのだった。つきひへて(月日が経って…突き引経て)、よこした文に、

あさましくたいめんせで、月日のへにけること、わすれやし給にけんといたく思ひわびてなむ侍、世中の人の心は、めかるれば、わすれぬべき物にこそあめれ
 
(あきれるほど対面せずに月日を経たことよ。私のこと、もしやお忘れになったのではと、ひどく思い悩んでいる。世間の人の心は、目離れすると忘れてしまうものらしいから……あきれるほど対面せず、突き引を経たことよ、ぼくをもしやお忘れになったのではと、ひどく思い悩んでいます。世間の男の心は、女離れすると、ぼくなど忘れてしまうのが当然の物であるらしので)と言ってきたので、(友に・伴に)詠んで遣る。

 めかるともおもほえなくにわすらるゝ 時しなければおもかげにたつ

(目離れしたとは思えない、忘れる時さえないので、君の・面影が目前に立つ……女離れとは思えない、忘れる時なんてないので、女の・面影に立つ・ではないか)


 

貫之のいう「言の心」を心得、俊成のいう「言の戯れ」を知る

 「うるはしき…麗しき…立派な…端正で美しい…人との関係が良い…仲良しの」「友…伴…身に伴ったもの」「あさましくたいめんせで…あきれるほどお会いしないで…嘆かわしいほど感どころに対面できずに」「わすれやし給にけん…お忘れになったのだろうか…見捨てられたのだろうか」「めかる…目離れる…遠く隔たる…女離れする」「め…目…女」。

 

仲の良い友との往復書簡と見えるのは、この話の「清げな姿」である。

いと麗しきわが伴が、女のせかいに入って弱気な便りを寄こした。そのおやの返歌である。これで気力を得て、和合なったかどうかは疑問である。余情には、おとこの本性の弱さが顕れている。


 (2016・6月、旧稿を全面改定しました)