帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語(六十二) これやこの我にあふ身をのがれつつ

2016-06-17 19:18:09 | 古典

 

              


                           帯とけの「伊勢物語」


 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。


 伊勢物語
(六十二) これやこの我にあふ身をのがれつつ

 昔、何年か、をとつれざりける(訪れなかった…おと連れなかった)女、心かしこくやあらざりけん(心賢くなかったのだろうか…心確りしていなかったのだろうか)、はかなき人のことにつきて(あてにならない男の言葉につられて…はかない男とのこと尽きて)、地方の国の人に使われていて、もと見し人(元見知った旅人…もと身知った男)の前に出て来て、食事の世話などした。夜になって、「このありる人給え(さきほど居た女いただこう)」と、宿の主人に言ったので、女を・よこしたのだった。男、「我をばしらずや(我をば知らないのか…我おは見知らぬか)」と言って、
 いにしへの匂ひはいづら桜花 こけるからともなりにけるかな
 (いにしえの色香はどこへやら、桜花むしりとった幹とでも、なってしまったかな……以前の色香はどこへやら、我が・おとこ花、苔る空洞にでもなったかな・これを見忘れたかと言うのに、ひどく恥ずかしいと思って、答えもしないでいたので、「などいらへもせぬ(どうして答えもしないのだ…どうして応えないのだ)」と言えば、「なみだこぼるるにめも見えず(涙がこぼれるので目も見えず…汝身駄零れるのでめも見えず)、ものもいはれず(ものも言えない…ものも応えられない)」と言う。
 これやこの我に逢ふ身をのがれつゝ 年月ふれどまさりがほなき
 (これやこの我に逢う身を逃れつつ、年月経ても、優り顔ではない・相変わらず賢そうな顔でない……これか、この我に合う身を、逃れつつ、利し突き経ても、優り彼おでない・並みのものか)と言って、きぬぬぎて(衣脱いで…心も身もむきだしにして)、とらせけれど(与えたけれど…手に・取らせたけれど)、捨てて逃げたのだった。どこへ去ったか知らない。


 貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう言の戯れを知る
 「をとづれ…訪れ…お門の連れ」「を…お…おとこ」「と…門…おんな」「見し人…見知った人…合った男」「見…覯…媾…まぐあい」。
 「桜花…(一般に美しい)花…木の花…男花…おとこ端」「こけるから…花をこき落とした幹…倒れた空洞の木…苔むす空洞の幹…おとこを卑下又は自嘲した言葉」「め…女…おんな」「としつき…年月…利しつき…敏しつき…疾し尽き」「あふみ…逢う身…合う身…合う見」「まさりかほなき…優り顔なき(相変わらず馬鹿づら)…優り彼ほではない…優れた彼おではない(武樫おとこと感じない)」。
 「きぬ…衣…心身の換喩…情と身」。

 裏切って去った女への恨み言が、言葉として表されてあるのは「心かしこくやあらざりけん」と「としつき経れどまさり顔なき」である。「桜花」の花をこき落とした幹に例えて女の色香の衰えを指摘した。これは、歌と物語の「清げな姿」である。

「桜花…木の花…男花…おとこ花」の「言の心」を心得る人は、男自身のこととわかるので、二首の男の歌は、いずれも必要以上の卑下や自嘲で、こんな我が身を逃れていたのかと言いつつ、恥辱を加え、侮辱する有様が見えるだろうか。読後の第一感は、下劣と貶していい物語である。

「伊勢物語」は、女と男の物語である。人の身と心の、ほんとうの有様や生々しい心根を、複数の意味に戯れる言葉の本性を踏まえて、清げな姿(清いとは言えない姿)にして、読者の心に直接伝わるように語られる。和歌と同じ表現様式と内容をもった高度な文芸である。
くさしたくなるが、この世から消してしまえるような物語ではない。このように読めば、紫式部の「伊勢物語」読後感と一致する。

 (2016・6月、旧稿を全面改定しました)