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帯とけの「伊勢物語」
紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。
伊勢物語(五十四)つれなかりける女にいひやりける
昔、おとこ(昔、男…武樫おとこ)、つれなかりける(冷淡だった…連れることなくかりした)女に言ってやった。
ゆきやぬ夢ぢをたのむたもとには あまつ空なるつゆやをくらん
(行くに行けない夢路を、行きたいと・頼むわが袂には、天つ空なる露でもおりているのだろうか・重い……ゆくに逝けない夢路を、ゆきたいと・頼むおてもとには、天つ空に成る白つゆでも贈ろうか・遅い)
貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう「言の戯れ」を知る
「つれなかりける…冷淡だった…連れなかった…つれないかりした」「かり…狩…めとり…まぐあい」「ゆき…行き…逝き」「たもと…袂…てもと…みもと」「あまつそらなる…天つ空にある…天の空に成る…浮き天の波に漂う情態に成る…空しくなる」「つゆ…露…おとこ白つゆ」「をく…招く…誘う…おく…置く(露などがおりる)…送…贈」。
おとこ誇り、おとこ自慢の、男どもが斯くありたいと思う物語である。山ばの頂上に共に連れてゆき、浮天の波に漂う思いをさせるという男の務めについて、自信満々、余裕綽綽である。
後撰和歌集(古今和歌集の次の勅撰集)恋一に、この情況を裏返したような、女の立場で詠んだ歌がある。題しらず、(よみ人しらず)。
ゆきやらぬ夢路にまどふたもとには あまつそらなるつゆぞをきける
(行くに行けない夢路に惑う袂には、天つ空の露が降りていたことよ・重たいわ……逝くに逝けない、夢路に惑う、手もとには、女の空ぞらしくなる白つゆ、贈り置いたのねえ・早々に)
「まどふ…惑う…まとふ…まといつく」「たもと…袂…手許」「た…接頭語」「あまつ…天津…天の…あまの…女の」「そら…天空…空…むなしい」「ける…けり…気づき・詠嘆の意を表す」。
これが普通の性情で、ご一緒に同時に有頂天へ参上することは、至難の業(わざ)である。「古事記」によると、みとのまぐあひ(み門のま具合い)は、男神が先に「あなにやし、えをとめを」と声をあげ、後に女神が「あなにやし、えをとこを」と言うのを、「み合」とすると言う。神世ならぬ、人の夜は、推して知るべきである。
(2016・6月、旧稿を全面改定しました)