帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

新・帯とけの「伊勢物語」 (五十)  鳥のこを十づつ十は重ぬとも

2016-06-05 18:37:11 | 古典

             



                         帯とけの「伊勢物語」


 

紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観で、在原業平の原作とおぼしき「伊勢物語」を読み直しています。


 

 伊勢物語(五十)鳥のこを十づつ十は重ぬとも


 昔、おとこ有けり(昔、男がいた…武樫おとこが有った)、うらむる人をうらみて(恨んでいる人を恨んで…恨み言をいう女を恨んで)、

 鳥のこを十づつ十は重ぬとも 思はぬ人を思ふものかは

 (鳥の卵を十づつ十積み重ねても・卵百個を積み重ねる不可能な事を成しても、我を思わない人を、我は・恋しているのか……卵を百個積み重ねても・できない努力を積み重ねたがそれでも、思いを・思わない女を、我は・思っているのかあゝ) と言ったので、

 朝露は消え残りてもありぬべし 誰かこの世を頼み果つべき

 (朝露は消え残ってはあるでしょう、誰がこの世をそんなものを頼りに、果てるのでしょうか……浅はかな白つゆは、わが中に・消え残ってはあるでしょう、誰がこの夜を、そんなもの頼りに果てられるのよ)

 また、男、

 吹風にこぞの桜は散らずとも あな頼みがた人の心は

(吹く風に去年の桜は散らずとも・あり得ないことがあろうとも、あゝ頼み難い女の心は……心に吹く風に、おとこ花は散らさず・耐えても、あゝ頼み難い、女の心は)

 また、女、返し、

 行く水に数書くよりもはかなきは 思はぬ人を思ふなりけり

 (流れ行く水に数書くよりもはかないのは、女の思いを・思わない男を思うことだったわ……逝く女に、ものの数欠く・もの足りない、ことよりも、はかないのは、女のためを・思わない男を思うことだったわ)

 また、男、

 行く水と過ぐるよはひと散る花と いづれ待ててふことをきくらん

 (流れ行く水と過ぎる齢と散る花と何れが、待てと言うことを聞き従うだろうか……逝く女と過ぎる夜ばいと散るおとこ花は、いずれが待てと言って、いうこと聞くだろうか)

 

あだくらべかたみに(頼りなさ比べお互い…無情さ比べお互いに)していた男と女の、しのびありきしける(お忍びで逢っていた…秘密のことしていた)時のことだろう。

 

 

貫之のいう「言の心」を心得て、俊成のいう「言の戯れ」を知る

「鳥…とり…言の心は女」「思ふ…恋する…愛する…絶頂にて感極まる思いをする」「あさつゆ…朝露…浅つゆ…浅さはかなおとこ白つゆ」「世…夜」「風…心に吹く風」「桜…木の花…木の言の心は男…男花…おとこ花…心に風吹けば散るもの」「ゆく水…流れ行く水…去り行く女…逝く女」「水…言の心は女」「かずかく…数書く…数欠く…数が少ない…もの足りない」。

 

 歌によって男女が本音を交し合う「相聞歌」を連ねた物語である。普通は恋愛歌であるが、これは、いわば夫婦喧嘩。男と女の性情の違いのために和合なりがたい有様をお互いに言い合い聞き合う。歌には「心におかしきところ」があるので、其処に本音が顕れる。

 

この章段を踏まえて、鳥の卵を十個積み重ねるという不可能なことを成して見せた人がいた。

一個の卵を(下を少し割って)卓上に立てて見せたという「コロンブスの卵」のはるか昔、(五百年以上前)、康保四年(967年)に、道綱の母は、十個の卵を重ねて見せた(内容が明らかになれば、道綱の母は世界に誇るべき先駆者なのに…)。「蜻蛉の日記」のその部分を読むと。その頃、道綱は十数歳、夫の藤原兼家は、この前年に急病を患い、本宅に帰った。病癒えて常の日々が戻るが、ものの元気回復ならなかったようで、稲荷詣や賀茂詣でなどして、ものの栄を神頼みする。妻の道綱の母は、独り寝の情態が続く頃。

道綱の母が夫の兼家の妹(九条の女御・いわば小姑)に、手慰みに作った「鳥の子を十重ねたもの」をお贈りした。雁の卵を生糸で次々と結んで、糸を引き上げれば卵が十個積み重なったように見える物で、「男ども為せばなるではないか」とでも言いたげなものであった。卯の花に付けてあった文は、

この十重なりたるは、かうてもはべりぬべかりけり。

(この十重なっているのは、このようであるべきだってことよ……この・おとこの、十重なっているのは、おとこは・斯うして、狩るべきだったってことよ)


 「うの花…卯の花…白く咲くおとこ花…憂の花」「こ…鳥の子…卵…二つ重ねるのも不可能なもの…玉こ…おとこ」「かり…あり…雁…狩り…猟…むさぼり…あさり…めとり…まぐあい」。


 九条の女御の御返しは、

数しらず思ふ心にくらぶれば 十かさぬるもものとやは見る

 (……数知らぬ女の多情な心に比べれば、この十重ねたものも、ものの数と・百の数と、女は・見るかしらね)

 
 「もも…百」「もの…言い難いこと…多情…満足すべきこと」「見る…思う」「見…媾…まぐあい」。

 
 「道綱の母の卵」は、子供の玩具になった後、行方知れずになったとか。

 「聞き耳」を同じくして「伊勢物語」を聞いていれば、在原業平よりほぼ百年後の、女同志の現実に交わされた文も、このように読むことができる。


 (2016・6月、旧稿を全面改定しました)