帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百九十四)(三百九十五)

2015-09-14 00:08:00 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。

今の国文学的な和歌解釈の方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。

 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

小野宮のおほいまうちぎみの家にていけのほとりのさくらを見て

 元輔

三百九十四  さくら花そこなるかげぞをしまるる しずめる人のはるとおもへば

小野宮の大臣(藤原実頼・公任の祖父)の家にて、池のほとりの桜を見て (清原元輔・清少納言の父)

(桜花、底に映っている影ぞ、惜しまれる・残念に思える、世に・沈んでいる男の春と思えば……おとこ端、逝けの・底にある陰りぞ、惜しまれる、しずめた女の、いまは・春と思えば)

 

言の戯れと言の心

「さくら花…桜花…男花…おとこ花…男端…おとこ」「はな…花…先端」「そこ…其処…(池の)底…(逝けの)底」「かげ…影…陰…陰の部…陰り…衰え」「をしまるる…惜しまれる…残念に思える…捨てがたい…愛おしい物と思う」「しずめる…鎮める…静める…沈める」「人…男…人材…女」「はる…春…この世の春…この夜の春情」

 

歌の清げな姿は、世の不遇の人材を惜しんだ・不遇のわが身分を訴えた・我が身の老い衰えを惜しんだ。どのように聞くか、聞き耳によって異なる。

心におかしきところは、おとこの盛りは、山ばより逝けの底にうち沈んだ、惜しまれる、鎮め沈めた女の井間は春と思えるので。

 

「心におかしきところ」がなければ、歌ではない、ただの訴状である。

 

「清少納言枕草子」に、公任が仕掛け、清少納言の応じた、即興的合作の春歌が有る。

 空さむみ花にまがへてちる雪に すこし春ある心ちこそすれ

表面の意味は、誰でもわかる早春の景色である。そんな平板な意味にしか聞こえないのは、「聞き耳」が、平安時代の人々と全く異なってしまったためである。初な女を装った歌の、「心におかしきところ」と殿上の男どもの反応ぶりは、当ブログ、帯とけの枕草子(百二)で、ご覧ください。

 

 

延喜御時月令御屏風に              凡河内躬恒

三百九十五  さくら花わがやどにのみ有りとみば  なきものぐさはおもはざらまし

延喜の御時の月なみの御屏風に          凡河内躬恒

(桜花、わが家にだけ有ると思えば、もとより無き、銭・地位・女などは、思わないだろうに……おとこ花、わが屋門にだけ有ると、思って・見ていれば、亡き物を女は、且つ乞うと・思わないだろうになあ)

 

言の戯れと言の心

「さくら花…男花…おとこ花」「やど…宿…家…屋門…言の心は女」「みば…見れば…思えば…見尽くせば」「見…覯…媾…まぐあい」「ものぐさ…物種…物事の原因となる種々の物…金・財産、地位・身分、女・子供など…もの草…物、女」「草…言の心は女」「ざらまし…(思わない)だろうになあ」「まし…仮に想像する意を表し、その上に、不満や意向を込める」

 

歌の清げな姿は、世の中は桜の花盛り、これわが家にだけ有ると見れば、他に何物も欲しいと思わないだろうに。

心におかしきところは、夜のおとこ花、すべてわが物と見ていれば、無い物ねだりはしないだろうになあ。

 

両歌は、ほぼ共通した堕ち窪んだ境地に伏したおとこ、その男の思いを述べている。

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(再掲)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。