帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百九十)(三百九十一)

2015-09-11 01:14:45 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学的な和歌解釈の方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

はるものへまかりけるに、つぼさうぞくしてはべりける女どもののべに侍り

ける見侍りて、なにわざするぞととひはべりければ、ところほるなりといら

へ侍りければ                        賀朝法師

三百九十  はるののにところもとむといふなれば ふたりぬばかりみてたりやきみ

春、出かけた時に、壺装束(徒歩での外出着)した女たちが、野辺にいたのを見て、何の業をしいるのかと問うたので、ところ(とろろいも)、掘るなりと応えたので、 (賀朝法師・比叡山の法師という)

(春の野に所を求めていると言うのならば、二人で寝るほどの床見つけたかな、あなたは……春の情、ひら野で、とろろ求める・とろとろまどろみ求める、というのならば、夫足りず・二人程、見て足りたのか、貴身)

 

言の戯れと言の心

「はるのの…春の野…春の情の野…春情に山ばなし」「ところ…所…場所…床ろ…とろろいも…精のつく食べ物…とろとろ…眠気がさすさま…うとうとまどろむ」「ふたりぬ…夫足りぬ…夫(一人では)足りない…二人寝…(夫)二人と寝る」「ばかり…程度を表す」「みてたりや…見ていたのか…満て足りたか」「見…覯…媾…まぐあい」「や…疑問の意を表す」

 

歌の清げな姿は、春の野で寝どころ求めるとあえて聞いた法師の冗談。

心におかしきところは、多情な女がとろろ喰った結果を問う。法師のおふざけの奥の意味。

 

 

かへし

三百九十一 春の野にほるほる見れどなかりけり よに所せき人のためには

返し                       (女の歌)

(春の野で、掘って掘ってみるけれど、とろろも床ろも・無かったわ、世に所狭しと大威張りで生きている人のためには・神も仏も恵み無しよ……春の野でとろろ掘ってみたけれど無かったのよ、夜に処狭く情愛溢れる人のためには・必要無いってか)

 

言の戯れと言の心

「ほるほる…掘る掘る…とろろを得るために土を掘る…子掘り・井掘り…なぐあい」「見…こころみる…覯…媾…まぐあい」「なかりけり…見つから無かったことよ…神も仏も無かったわ」「よに所せき人…世に所狭しと大威張りで生きている人・わたしたち…夜に処狭く多情が溢れる程の人・わたしたち」

 

歌の清げな姿は、とろろ見つからない、わたしたち日頃の行いが悪いためか・法師さまよ。

心におかしきところは、だから、はかない井掘りする夫に食わせるためですよ。

 

 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(再掲)


 江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。