帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百九十八)(三百九十九)

2015-09-16 00:23:36 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておく。やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な方法であることに気付くだろう。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

題不知                       読人不知

三百九十八 いはまをもわけくるたきの水を いかでちりつむ花のせきとどむらん

題しらず               (よみ人しらず・男の歌として聞く)

(岩間をも分けて流れ来る滝の水を、どうして、散り積もる花が堰き止められようか・できない……岩間をも押し分け来る、多気のをみなを、どうして、散り積るおとこ花・如きが、堰き止められようか)

 

言の戯れと言の心

「いはま…岩間…岩・石・間の言の心は女」「わけ…自ら判断して…押し分け…(岩をも)割いて」「たき…滝…激流…多気…多情…激情」「水…言の心は女」「いかで…どうして…疑問を表す…どうして(出来ようか出来ない)…反語を表す」「花…桜の花びら…おとこ花の残骸…男の情念の果て」「らん…(理由・根拠などを)疑問をもつて推量する意を表す」

 

歌の清げな姿は、激流に翻弄され流れ来る桜の花びら、春の滝の景色。

心におかしきところは、女の多気には、散り果てたおとこなど、激流に浮いた花びらに等しい。

 

公の歌集「拾遺集」では、「清げな姿」を前面に押し出すように、「巻第一春」に置かれてある。春の景色の歌としても見事であるが、歌は、ただそれだけでは無いことは、平安時代の大人なら誰でも知っていた。

 

 

三月にうるふ月はべりけるとし、やへ山吹をよみ侍りける

   菅原輔昭

三百九十九 春風はのどけかるべしやへよりも かさねてにほへやまぶきのはな

三月に閏月があった年、八重山吹の花を詠んだ  (菅原輔昭・父は菅原文時・菅三品、曽祖父は菅原道真)

(今年の・春風は長閑だろう、八重よりも重ねて、色艶美しく咲け、山吹の花……春の情の心風は、今年は・長閑だろう、八重よりも多く、重ねて・九重十重と、色艶よろしく咲け、山ばのおとこ花)

 

言の戯れと言の心

「春風…季節の春の風…心に吹く春の風」「のどけかるべし…長閑であるに違いない…長くゆったりとして居て当然である」「やへ…八重…花びらの数…二重でも愛でたいものが八重」「かさねて…重ねて…九重にして」「にほへ…色艶美しく咲け…香しく咲け」「やまふきのはな…山吹の花…春に黄色または白い花が咲く…落葉低木…男花…山ばで咲くおとこ花」

 

歌の清げな姿は、今年は春三月が長い、色美しく九重に咲け、山吹の花。

心におかしきところは、重ねて色気たっぷりに咲け、山ばのおとこ花。

 

古今集の山吹の歌を聞きましょう。巻第二春歌下、貫之

吉野河岸の山吹ふく風に そこの影さへうつろひにけり

(吉野川、岸の山吹、吹く風に、底の影さえ揺れ移ろうたことよ……好しのかは、来しの山吹、心に・吹く風に、底にある陰さえ色衰えたことよ)


   「吉野…良しの…好しの」「かは…川…言の心は女…かは…疑問を表す」「山吹…山ばで咲くおとこ花」「影…陰…陰の部…陰り」。


 歌の清げな姿は、吉野川の辺に山吹の咲いた風景。

心におかしきところは、身好しの女の山ばに吹く心風に、底に沈むおとこの陰の色衰えるさま。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下再掲載)

 

江戸時代の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していた。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったので曲解したためである。それを受け継いだ国文学の和歌の解釈方法は、序詞、掛詞、縁語などを修辞にして歌は成り立っていたとする。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに、文化遺産であるものを。