帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (三百七十八)(三百七十九)

2015-09-04 01:51:34 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄


 

平安時代の「拾遺抄」の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読む。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

ながされてまかり侍るとき、いへの梅の花を見はべりて   菅家御

三百七十八 こちふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春をわするな

流されて、出で立つとき、家の梅の花を見られて     (菅家御・菅原道真)

(東風吹けば、匂いおこせよ、梅の花、主人が居なくても、春の季節を忘れるな……春の心風吹けば、男の匂いおこせよ、我が子ども、父が居なくても、春の情を忘れるな)

 

言の戯れと言の心

「こちふかば…東風吹けば…春風吹けば…心に春情の風吹けば」「にほひ…梅の花に香り…男の匂い…男の、風情・風格・気品・魅力など」「梅の花…木の花…男花…難波津に咲くやこの花は皇太子のこと…此処では幼き我が子のこと…おとこ花」「春…季節の春…情の春…ものの張る」。

 

「大鏡」によれば、左大臣藤原時平の讒言(事実を偽って他人を誹謗中傷すること)により、右大臣菅原道真は、「太宰府帥になしたてまつり流され給ふ」とある。右大臣殿には子供が大勢いた。成人した子達は、それぞれ、方々に流された。幼き子供たちは許されたが、離ればなれとなる。それぞれを、「かなしく」思し召して、詠まれた歌である。

 

歌の清げな姿は、主人が居なくとも、春が来たならば、花咲き匂いおこせよと、庭の梅の花へ語りかけた。

心におかしきところは、父が居なくとも、心に春を迎え、匂い立つ男になるのだぞ、ものの張るを忘れるなと、幼い子に命じたところ。


 

延喜御時の御屏風に寺もうでしたる女の有る所    つらゆき

三百七十九 おもふことありてこそゆけ春霞 みちさまたげになにへだつらん

延喜御時の御屏風に寺もうでしたる女の有る所    (紀貫之)

(思い悩むことがあるからこそ、詣でに・行ったのである、春霞よ、道を妨げて、なぜ、隔てるのだろうか……思うことがあってこそ、女も・逝くのである、春が済み・張るが澄み、路妨げて、なぜ、男女を隔てるのだろうか)

 

言の戯れと言の心

「おもふこと…「ゆけ…ゆく…(寺詣りに)行く…逝く…感の極みに成る」「春霞…視界を妨げるもの…春の情の澄み…張るもの済み」「道…詣でる道…道心の赴くところ…路さ…ものの通い路」「へだつ…隔てる…ひき離す…疎遠となる」

 

歌の清げな姿は、もの詣での屏風絵を見ての感想。

心におかしきところは、春情が澄めば、男女の、身もこころも隔たる、なぜかと、はるがすみに問いかけた。

 

歌の言葉の「梅の花」と「春霞」に、一義な意味しかないならば、これらの歌は、平板な心しか伝わらない「くだらぬ」歌になる。そのようなものと決めつけていいのか、そんなはずはない。むしろ、われわれが、和歌の解釈を根本的に間違え、曲解しているのではないかと考え直しているのである。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌解釈の変遷について述べる(以下、再掲)


 江戸の国学から始まる国文学的な古典和歌解釈は、平安時代の歌論や言語観から遠く離れてしまった。

和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸のようである。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式のようである。万葉集の人麻呂、赤人の歌は、明らかに、この様式で詠まれてある。

歌は世につれ変化する。古今集編纂前には「色好み歌」と化したという。「心におかしきところ」のエロス(性愛・生の本能)の妖艶なだけの歌に堕落していった。これを以て、乞食の旅人は生計の糧としたという。歌は門付け芸と化したのである。歌は「色好みの家に埋もれ木」となったという。そこから歌を救ったのは、紀貫之ら古今集撰者たちである。人麻呂、赤人の歌を希求し、古今集を編纂し、歌を詠んだ。平安時代を通じて、その古今和歌集が歌の本となった。三百年程経って新古今集が編纂された後、戦国時代を経て、再び歌は「歌の家に埋もれ木」となり、一子相伝の秘伝となったのである。

江戸時代の賢人達は、その「秘伝」を切り捨てた。伝授の切れ端からは何も得られないから当然であるが、同時に「貫之・公任の歌論や、清少納言や俊成の言語観」をも無視した。彼らの歌論と言語観は全く別の文脈にあったため曲解した。そして和歌を解いた。受け継いで国文学の歌解釈がある。序詞、掛詞、縁語などを、修辞にして歌は成り立っていたとする解釈方法である。それが、今の世に蔓延ってしまった(高校生の用いる古語辞典などを垣間見れば明らかである)。平安時代の人が聞けば、奇妙な解釈に、笑いだすことだろう。

公任の云う「心におかしきところ」と「浮言綺語の戯れ似た戯れの内に顕れる」と俊成の云う事柄と共に、和歌のほんとうの意味は、埋もれ木のままなのである。和歌こそは、わが国特有の、まさに文化遺産であるものを。