帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第九 雑上 (四百十五)(四百十六)

2015-09-25 00:11:21 | 古典

          


 

                         帯とけの拾遺抄

 

藤原公任撰『拾遺抄』の歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って読んでいる。

公任の捉えた和歌の表現様式は「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりといふべし」という、優れた歌の定義に表れている。勅撰集に採られるような歌には、必ずこの三つの意味が有るだろう。

今の国文学の和歌解釈方法は棚上げしておくが、やがて、平安時代にはあり得ない奇妙な表層のみの解釈であることに気付くだろう。すでに、江戸時代に解釈方法を根本的に間違えていたのである。


 

拾遺抄 巻第九 雑上 百二首

 

亭子院大井に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふに、

ことのよしそうせんとまうして            一条摂政

四百十五  をぐら山みねのもみぢも心あらば いまひとたびのみゆきまたなん

亭子院、大井に御幸あって、天皇の・行幸もあって然るべき所であると仰せになられたので、ことの理由を奏上致しましょうと申し上げて、 (一条摂政・藤原忠平・小一条太政大臣・貞信公)

(小倉山、峰の紅葉も、公の事を思う・心あるならば、今、一度の行幸を待っていてほしい……お暗の山ば、頂点のあき色の果て方よ、ひとを思う・心あるならば、井間、一度のみゆき、待っているだろうよ)

 

言の戯れと言の心

「をぐら山…小倉山…山の名…名は戯れる。小暗の山ば、おとこの果て方の山ば」「山…感情などの山ば」「みね…峰…頂上…感の極み」「もみぢ…秋の色…飽きの色情…厭きの色情…も見じ…見ない」「み…見…覯…媾…まぐあい」「心あらば…公事を思う心が有るならば…相手を思い遣る心が有るならば…おんなを思い遣る心が有るならば」「いまひとたび…いま一度…再度」「いま…今…井間…おんな」「みゆき…御幸…見ゆき」「なん…なむ…強く望む意を表す…してほしい…現在推量の意を表すこともある…(いまは)しているだろう…当然・適当の意を表す…すべきだろう」

 

歌の清げな姿は、小倉山の紅葉に呼びかけた、お願い。

心におかしきところは、飽き色の果て方よ、井まを思い遣る心が有るならば、二見させて当然だろう。

 

 

其後延喜帝王かの所に行幸ありけるひ、あまたの歌よませ給ひける中に

   貫之

四百十六 大井がはかは辺のまつにこととはん かかるみゆきや有りしむかしも

其の後に、延喜帝王、かの所に行幸のあった日、数多き歌を詠ませられた中に、  紀貫之

(大井川、川辺の、長寿の・松に一言問いたい、このような、すばらしい・行幸は、昔もあったか、なかっただろうな……おお井かは、お付きの老女に一言問いたい、このような、見ゆきはかって有ったか無かったな、武樫の身よ)

 

言の戯れと言の心

「大井川…川の名…名は戯れる。大いなる井かは、多い女」「大…井や川のほめ言葉では無い」「井・川…言の心は女…おんな」「まつ…松…長寿…待つ…言の心は女」「みゆき…行幸…このような言葉も戯れる。見ゆき、身ゆき、み逝き尽き」「や…疑問を表す…反語を表す」「むかし…昔…武樫…おとこのほめ言葉…伊勢物語の語り出しの、むかしをとこありけり(昔、男ありけり…武樫おとこありけり)と聞く文脈にある」「も…並列を表す…意味を強める…感動・詠嘆を表す」

「川」や「松」の言の心は女であると、先ず、その気になった上で(仮にこの文脈に立ち入った上で)、紀貫之『土佐日記』を読んでください。これらの「言の心」を教示することが『土佐日記』を書いた主な目的だったか、とさえ思える。ついでながら、みなと(泊り)、海、鶴(鳥)なども言の心は女。月、舟などは、男。

 

歌の清げな姿は、御幸の盛大なありさまを、前代未聞であろうと老松に問う。

心におかしきところは、このような、みゆきは、未だかって有っただろうか、おお井かはの待つおんなに問うところ。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。


 

和歌の表現様式について述べる(以下は再掲載)


 紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の言語観と歌論に従って、平安時代の和歌の表現様式を考察すると次のようである。「常に
複数の意味を孕むやっかいな言葉を逆手にとって、歌に複数の意味を持たせる高度な文芸である。視覚・聴覚に感じる景色や物などに、寄せて(又は付けて)、景色や物の様子なども、官能的な気色も、人の深い心根も、同時に表現する。エロチシズムのある様式である」。