帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの枕草子(拾遺二十七)池ある所の

2012-03-09 00:07:56 | 古典

   



                      帯とけの枕草子(拾遺二十七)池ある所の



 言の戯れを知らず「言の心」を心得ないで、この時代の人々と全く異なる言語感で読んでいたのは、枕草子の文の「清げな姿」だけである。「心におかしきところ」を紐解きましょう。帯はおのずから解ける。



 清少納言枕草子(拾遺二十七)いけある所の


 文の清げな姿

 池ある所の五月の長雨の頃こそ、しみじみとした情趣を感じる。菖蒲、菰など密生して、水も緑に映えていて、庭も同じ緑一色に見え広がって、曇っている空をつくづくと眺め暮らしているのは、とっても風情がある。

 いつもすべて池ある所は、しみじみとした感じで趣がある。冬も氷になっている朝などは言うまでもない。わざと手入れしてあるのよりも、うち捨ててあって水草がちになって荒れ、青いところの絶え間絶え間より月影ばかりは白々と(氷に)映って見えている。

 すべて、月影は如何なる所にても、しみじみとした感慨がある。


 原文

 いけある所の五月ながあめのころこそいとあはれなれ。さうぶ、こもなどおひこりて、水もみどりなるに、にはもひとついろに見えわたりて、くもりたるそらをつくづくとながめくらしたるは、いみじうこそあはれなれ。

 いつも、すべて、池ある所はあはれにおかし。冬もこほりしたるあしたなどは、いふべきにもあらず。わざとつくろひたるよりも、うちすてゝみくさがちにあれ、あをみたるたえまたえまより、月かげばかりはしろじろとうつてりて見えたるなどよ。すべて、月かげは、いかなる所にてもあはれなり。


 心におかしきところ

 逝けあるところの、さつきの淫雨のころこそ、しみじみとした情感がある。壮夫、子も、感極まり、こりかたまって、女は若やかで、にわも同じ若い色に見えつづいている。心に雲満ちている女を、つくづくとながめ暮らしているのは、とっても「あはれ」である。

 いつもすべて逝けあるところは、「あはれ」で趣きがある。冬も、子堀りした朝はいうべきではない。わざとらしくとり繕うより(逝けではすべて)うち捨てて、女がちになって荒れ、吾お、見ている絶え間絶え間より、つき人をとこの色香だけは白々と移りゆくのが見えていることよ。すべて、月人壮士の照るのはどのようなところでも「あはれ」である。


 言の戯れと言の心

 「いけ…池…逝け…山ばより感情の落ち込んだところ」「あはれ…しみじみとした感概…しみじみとした風情…さみしい…悲哀を感じる」「おかし…趣がある」「こほり…凍り…氷…子掘り…まぐあい」「水草…女」「つきかげ…月光…男の威光…男の色香」「月…月人壮士…つき…おとこ」「あをみたる…青みたる…吾がお、見ている」「見…覯…媾…まぐあい」。



 これは、宮仕えを辞して、我が里にひっそりと住まう悲哀を述べた文のようにみえる。それだけではなく、女の「逝けの心」を述べた文とも聞く。それには先ず、歌言葉の「いけ」などの「言の心」心得なければならない。

 「土佐日記」一月七日の歌を聞きましょう。この歌は、「京」から土佐の国の「池」という所に男について下って来て住んだ若い女の歌である。


 人の家の「いけ」と名ある所より、鮒などの食料を船の人々に差し入れがあった。若菜が入れられてあって、今日が七日の若菜摘み食す日であることを知らせている。歌が添えられてあった。その歌、

 あさぢふののべにしあればみづもなき いけにつみつるわかななりけり

 いとをかしかし、いけといふは所の名なり。よき人の男につきて下り来て住みけるなり。

(浅茅の生える野辺であれば、水もない池で摘みました若菜でございます……情浅い茅の極まるひら野ですから、見すもしない逝けにて詰みました、若い女でございますよ)。

 「あさぢふ…低い茅が生えている…浅いおとこくさが極まっている」「浅茅…すすき(薄)と同じく薄情な男」「のべ…野辺…山ばではない」「みづ…水…見つ…見た」「見…覯…媾…まぐあい」「いけ…池…所の名…逝け…落ちくぼんだところ」「つみ…摘み…詰み…ゆきづまる」「若菜…若い女」。


 女は自らの現状を若菜に託して伝えている。字義以外の「言の心」を心得えられるように、土佐日記は記されてある。「言の心を心得る人は歌が恋しくなる」と、貫之は古今集仮名序の結びに述べている。


 伝授 清原のおうな

 聞書 かき人知らず (2015・10月、改定しました)

 
原文は、岩波書店 新 日本古典文学大系 枕草子による。