七技会のひろば

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遙かなる青春譜 -Tさんへの手紙-

2013年08月02日 | お話サロン
今日、波多野さんから投稿いただきました。
吉田さんの投稿文の掲載から間もなくですがせっかくの投稿ですから早速掲載しました。。
波多野さん、ありがとうございました。
2013.08.02 米田






    「遥かなる青春譜」―Tさんへの手紙―

                                  波多野

梅雨明けの暑い日々が続いていますが、Tさんお元気ですか?この時期になると50余年前あなたとNさんと三人で縦走した、北アルプス後立山連峰のことが思いだされます。あれから40年後、あなたはあの時の縦走をイメージした壮大な絵画「青春譜」を描き、私の転居祝いに贈ってくれましたが、あの絵はいまでも我が家の家宝として居間に飾ってあります。絵には次の一文が添えられていましたね。

     風が渡る! 雲が飛ぶ! 雲海が広がる! 
     あの尾根をとぼとぼ歩く三人は誰?
     彼らは何を目指したのだろう?
     それはわが青春のモニュメント、
     それは遥かなるわが青春譜!
     ・・・・・・・・・・・・・・

あの頃われわれ若者は日々の糧のことなど考えもせず、学園の休暇を利用してはひたすら山に登っていました。今にして思えばあの時期、われわれはこれまでの人生の中で一番輝いていましたね。どんなにつらい縦走でも、帰りの汽車の中では次の山行に思いをはせていました。あれから50年余。その大半を海外各地で過ごしてきた私は、その後あれほど情熱を傾けて登った山とすっかり縁が遠くなっていましたが、先日思いがけない用で我が青春のモニュメントであり、あなたの「青春譜」の舞台となった北アルプス後立山連峰山麓の町、信濃大町を訪れる機会がありました。どうしてそんなところへ一人で行ったかと言うと、私の甥が長らく務めた東京のIT関連企業を脱サラし、信濃大町にあるリンゴ農園で働くことになったので、その様子を見たかったからです。

新宿から信濃大町まで「特急あずさ」で三時間余り。列車が松本から単線の大糸線に入り、左手の車窓から残雪をいただいた北アルプスの峰々が見え出すと、もう50余年前、恋人に会いに行った時のように胸が高鳴りました。信濃大町駅には甥が出迎えにでていて、その足で彼のリンゴ農園を視察した後、早速かねてからどうしても一度は行ってみたいと思っていた、後立山連峰が仰ぎ見られる黒四ダムへ案内してもらいました。昔は途中まで山道を歩くしかなかった扇沢までの道も、今は大町アルペンラインが開通していて、30分ほどの林間を縫う快適なドライブで、関電トロリーバス扇沢駅へ着きます。駅近くからはあの時、悪天候と体力消耗から道半ばで挫折した、テント泊による北アルプス全山縦走計画(白馬岳→穂高岳全行程約120Km)の下山路に使った針の木岳大雪渓が垣間見られ、50年ぶりの再会にこみ上げてくるものがありました。あの縦走で、白馬岳から後立山縦走路最後の難関赤沢岳まで二週間かけてたどり着いた頃には私の体力は限界に達し、水筒には一滴の水もなく、止む無くあなた方には先行してもらい、リーダーであった私は尾根上に一人残りました。岩陰の高山植物に宿るわずかばかりの水滴で舌を湿らしながら這うようにして針の木岳に向かい、尾根上から夕闇迫る雪渓の傍らにテント設営中の豆粒のようなあなた方の姿を見出した時、私はこれで助かったと思いました。あの時もし30分遅かったら・・・・。

現在ではその赤沢岳のどてっ腹を貫通したトンネルを通り、トロリーバスが15分で富山県側にある黒部ダムまで運んでくれます。黒部ダムから更にケーブルカーを乗り継いだ黒部平(標高1,828m)からは、三人が悪戦苦闘した後立山主峰の五竜岳、鹿島槍岳、爺ケ岳等が遠望できました。今から思えばよくもあんな険しい山々を、40Kgを超す重装備で踏破した青春時代の無限とも思えるエネルギーに我ながら感嘆するとともに、そろそろ人生縦走路の下山点が見えてきた今日この頃、50余年の歳月がもたらす「青春譜」との残酷とも言える落差を痛感しないわけにはいきませんでした。私も、かって川端康成やコロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケスが描いた、余命短い老人の過ぎ去った青春への限りない寂寞が理解できる歳になったようです。余談になりますが、ガルシア・マルケスがこの年末に大学関係者の招きで日本を訪問することになったようで、先日、師事しているスペイン語のペルー人先生からセニョール波多野、あなたはガルシア・マルケス作品にたいへん関心があるようなので、訪日中に一度会ったらどうなのと冷やかされました。もちろん世界的大文豪に日本の一読者が会えるはずがないのを承知の上での冗談ですがね。

黒部平からはロープウエイ、トロリーバスを乗り継いで雲上の別世界室堂を経由して、これも学園時代盛んに登った立山にたどり着くことができますが、当日は時間と体力の関係で黒部平までで引返しました。帰途の扇沢から信濃大町までのちょうど中間点に位置する日向山高原(標高893m)には北欧風の瀟洒なリゾートホテルがありその日はそこに宿泊しました。露天風呂、ゴルフコースを備え、日本料理屋吉兆も入っているなかなか快適なホテルで、50年前の原生林が見事に近代的なリゾート地に変身していました。あなたが見たらきっと目を回しますよ。その夜は甥たちと近くの渓流で取れた岩魚の塩焼をつつきながら、これも地元産のリンゴ酒でほろ酔い気分になりましたが、山の聖地へ来てこんな年寄趣向にうつつを抜かしていて良いのかとの思いが常に付きまとい、落ち着きませんでした。やはり妙なところにまだ自称元山男の矜持(こだわり?)が残っているのでしょうかね。

学園卒業後間もなく私はN社を離れ世界各地が仕事場になり、今日まであなたとは余暇を利用して中南米、東南アジア各地を旅するなど家族ともどもお付き合いをしていただいてきましたが、あなたと言う生涯の友を得る契機となった50余年前の後立山連峰縦走は私の誇れる「青春譜」であり、その山行の思い出は生涯消え去ることはないでしょう。

ともあれ今回の信濃大町行きは甥の転職、都落ちと言うハップニングがきっかけで、50年前の遥かなる青春譜にタイムトリップした、私にとって忘れられない旅となりました。

以上がわれわれの「青春譜」の足跡を訪ねた私の小さな旅の報告です。それではTさん、また近く新橋で一杯やりながら昔の山談議でもしましょう。それまでお元気で。奥さんによろしく。

                              以上