七技会のひろば

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上京の頃(昭和30年)

2022年03月24日 | お話サロン

         上京の頃(昭和30年)

                           

 人は長く生きてナニが近付くと「これまでの生き様が走馬燈のように次から次

 へと目の前を通り過ぎて行く」と聞いています。私が属する我が善人グループ

 (いずれも七技会メンバー)それであるのか、過去の出来事を書き綴り、回

 し読みして楽しむ遊びが始まりまた。手始めは共通の話題たり得る電電入社

 の頃のそれです。私も15年前にいた拙文で参加しました。

 今回はそれを紹介させていただきます。

 

 

                上京の頃

                             2006.08.20 米田

 「美川町(今の石川県白山市美川神幸町)から来たの?」「はい」

 昭和30年1月末の東京で行われた入社筆記試験中の休憩時間での会話です。

 お相手試験の監督官。次に出会ったのは2月初旬の面接試験の待機場所。雑

 談的に「東京の住まいの予定は?」「ありません、もし受かったら探します」

 「合格したら連絡しなさい」と走り書きの住所と名前を書いた紙をもらった。

 高校の卒業式の翌日、合格通知が来た。さー大変。当時、住まいは自己解決が

 鉄則。

 18歳、修学旅行と就職試験で来ただけの東京での住まい探しは、伝手も才覚

 もなく途方に暮れながら学校に報告し、駄目元の気持ちでもらった紙の宛先に

 合格した旨の手紙を書いた。

 数日後、東京から電話があり「とりあえず私の家に来なさい」との有り難いお

 言葉。

 入社式の前日、布団袋と柳行李をチッキで送り、胸を膨らませながらも一抹の

 不安を抱いて上京。昭和30年3月31日のことです。

 一時的とは言え居候させてやると言うのだから、それ相当の家だと思っていた

 ら3LKの社宅で高1を頭に男の子3人の5人家族でありながら、私を受け入

 れてくださったのです。

 入社式の後、A形自動電話交換機技術訓練が始まったが、住宅難だし部屋代が

 高くなかなか落ち着く先が見付けられず、「そのうち有るさ」と慰められなが

 らずるずると日が経った。

 訓練が終わり、新しい勤務先が東京・歌舞伎座裏の東銀座電話局に決まり、住

 まいも当時予備校に通っていた高校の同級生と一緒に学生援護会の紹介で東京

 ・蒲田の六畳間に転がり込み、居候は3ヶ月でようやく終止符。

 この時の月給(日給月給)は280円/日×25日/月=7,000円、部屋代

 負担は3,600円/月÷2人=1,800円/月でした。

 3ヶ月間の居候を受け入れてくださった方は、美川町出身で旧制中学卒業と同

 時に上京、当時の電電公社に勤務する電力系技術者でした。あの時、たまたま

 試験監督官に動員され、私の受験票を見て同郷人への興味で声を掛けてくださ

 ったのだそうです。

 それにしても見ず知らずの小僧っ子に、同郷の縁から声を掛け、酔狂にも居候

 をさせてやろうと言ってくださったお心に、ただただ感謝の気持ちで一杯でし

 た。

 お名前は「奥秀吉」さん。それ以降40年近くの間、人生の先達として人の生

 き様を教えていただきました。

 どこの馬の骨だか分からぬ者を居候させた奥秀吉さんが偉いのは勿論だが、そ

 れを許した奥様はもっともっと偉い心の広い方だと思います。

 お二人は既に草葉の陰の方ですが「手を差し伸べる」ことを身をもって躾てい

 ただきました。

 今は随分と世知辛い世の中ですが、数寄屋橋が立派な橋であり、その下に水が

 ゆったりと流れていたあの頃、人の心はこんなにも豊かで暖かだったのです。

 いただいたご恩に感謝する気持ちを決して忘れてはならないと思っています。

 居候だった私も既にKOKIの大台に乗りました。

                              以上

                            2006.08.20記す

 

 

2022.03.24 米田書き込み

 

 

 

次回更新は4月9日の予定です。