七技会のひろば

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「ひとこと近況」集 その2

2013年12月24日 | お話サロン

     「ひとこと近況」集 その2



 先の予告のとおり、大久保さんと畠山さんから「出席」を「欠席」に変更するにあたっ
ての挨拶として丁寧な挨拶状と心境を綴った文をいただきました。お二方のご了解を得て、
ここに原文のまま掲載いたします。

 また、末尾に今日までにいただいた「ひとこと近況」集に対する感想等を掲載しました。





先ずは大久保さんです。
(原文は縦書きですが、ブログの都合で横書きに直しました。)




 秋冷の候。七技会の皆様お変わりなくお過ごしのことと存じます。
                         私 大久保ガイハクこと、
八月始め、自宅の階段を上りかけたとき、脚元がふらつくので、慌てて病院に駆
け付けたところ、肺に水が溜まり「肺炎」と診断され、即入院となり二ヶ月半な
すこともなく、ベットに寝たまま過ごしました。娑婆の暑い時期に冷房のきいた
病院で「暑さ知らず」で過ごせたことが、ケガの功名ということなのかも知れま
せん。
十月に入っても空の雲は「夏の雲」でした。台風一過ようやく秋の空になり急に
寒さが気になりだした十月十七日に、ようやく退院を許されました。
退院後一ヶ月未満なので脚力不足。そんな訳で今回の「大野木荘」行きは急遽欠
席させていただきます。幹事さん『ごめんなさい』。
これからの季節、益々寒さが厳しくなります。皆様 健康に十分気を付けてお過
ごしください。先ずは欠席のお知らせまで。
            平成二十五年十一月十一日
                             大久保ガイハク




続いて畠山さんです。



             人生の終着駅
                             畠山
 最近いろいろな知人が、次から次へと亡くなって行く。それは私の年齢が死に
近づいたからだと思う。ときおりは私も死について考える。しかし目下のところ
普通の健康を保っていると思っているので、死を身近に感じることは少ない。や
がて来ることは判っているし、永くてもあと十年位かと覚悟しているが、平素は
それを忘れている。忘れていられることが救いである。
 仏教では一期一会というが、そんな気持ちで毎日を過ごしていたのでは苦しく
てたまるまい。しかし、さらに年齢が進んで行ったとき、または重病に倒れたよ
うな時には、おのずから一期一会の心境になって行くのだろうと思う。その時が
来たら自身の衰弱を素直に受け入れ、味わって、終わるべき命ならば素直に終わ
らせたいと思っている。

   裏を見せ 表を見せて 散るもみじ  良寛

 死のまぎわには、それまで人には見せなかった意外な裏面が、表れてくるのだ
ろうか。そう思うと人の死は、悲しいというよりも痛ましい。私はどんな裏を見
せるのだろうか。あさましさ、弱さ、愚かさをさらけ出さなくては死ねないとす
れば恐ろしい。自分がこれまで大切にしてきた人生が死の間際になって裏切られ
るかも知れない。
 いまのところ私は信仰を持たない。死の間際になってカトリックの洗礼を受け
たり、仏教に帰依したりすることはないと思っている。出来ることならば現在あ
るがままの気持ちで、すらりと死んで行きたい。
 死後の世界というものを、今の私は信じていない。観念的にはどんなことでも
考えられるが、現実に死後の世界があろうとは思わない。私は現実的な人間であ
るから、自分の死後には何の期待も持たない。いずれは妻子親族などに心を残し
て死ぬことだろう。心を残すものがあるということは、一つの救いでもある。戦
場で静かに死んでいった多くの兵士は、妻子家庭に深い愛着をもつ男たちだった。
妻子があるから死にきれないという気持ちは、同時にまた妻子があるから死ねる
という心境でもあると思う。天涯孤独の兵士は、それこそ死にきれないだろう。
自分の死んだあとが全くの空白になってしまうと考えたら、これほど淋しいこと
はない。泣き悲しんでくれる妻子や親族があることによって、人間は死ねるので
はなかろうか。
 仏教でもキリスト教でも、「罪」ということをしきりに言う。同時に救いをし
きりと説いている。私は自分が宗教心をもたないせいか、罪と救いということを
ほとんど考えたことがない。罪の感覚がないわけではない。しかし自分の罪は自
分の努力で償うべきものと考えている。神仏によって救われたいと願ったことは
一度もなかった。
 多分、私は自分の死の時を迎えても、救いを求める気持ちにはならないだろう。
私は凡愚として死に、罪深きものとして地獄へでもどこへでも行く。そしてゲヘ
ナの火に焼かれる。そのことを恐れる気持ちはない。死のまぎわにたった一度、
南無妙法蓮華経と唱えれば、それだけで救われると仏教では教えられているし、
その意味も分かる。アナトオル・フランシスがジェスタスという短編で書いてい
るのも全く同じだ。
 しかし、私は南無妙法蓮華経を唱えることなく、この世の生活にいっぱい心を
残したまま死んで行ってもいいと思っている。救われたいという気持ちはない。
私の身辺のものが私の死を惜しんでくれさえすればいい。それが私の救いである。
人は人とのつながりで生きているものであり、神や仏とのつながりでいきている
のではない。他人が私を哀惜し、私の死を悲しんでくれるのであれば、私にとっ
て何よりの救いである。他人の哀惜に値するような形で今後の自分の人生を生き
て行きたい思う。
 そういう心境を、昔の人は「仏心が出てきた」と言ったのではないだろうかと
思う。私もそろそろ、そんな年齢になってきたようだ。







以下は、前回(12月9日掲載分)に対するコメントです。


◎近藤(隆)さんから(12月9日)
「七技会のひろば」を早速拝見しました。梅が島の宴は、3.5Hという超長時間の
盛会の模様が伝わる名報告でした。
欠席者の多くに、体調の理由が目立ち、齢相応の生きざまを見せられる思いでし
た。
一つ確認したいのですが、畠山さんの欄に、堀さんの報告らしき文面が区切らず
に繋がっているようですが、上手く読めばよろしいのですか。
最近、私も反省して、体力や持続力の衰退を自覚しますので、対策のようなこと
として、長いきしたけりゃ(肉は食うなじゃなくて、)「ふくらはぎを揉め」とい
う本を読みました。ふくらはぎは、第二の心臓だそうで、血流、体温、免疫力、
等が改善しますので、自転車こぎも、すいすいとやれるし、息切れしなくて歩け
るし、結構効果を自覚できております。ご参考まで。


(米田から)
ゴメンナサイ。畠山さんと堀さんとの間の改行が抜けていました。訂正しました。





◎白方さんから(12月10日)
お知らせメール有り難う、なんとかがんばっています。御礼まで
                          松山  白方


◎大西さんから(12月13日
大西です。
「七技会の広場」につながりました。有難うございました。
内容も豊富で電友会の記事など楽しいものがありました。
今後ともよろしくお願います。