『ソウルボート航海記』 by 遊田玉彦(ゆうでん・たまひこ)

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神仏と宗教

2009年06月20日 14時42分02秒 | 航海日誌
神仏とは、一般に宗教というカテゴリーの中で考え、語られるものだ。日常生活の中で神仏を語れば、語る者はどこかの宗教団体に属する信者か、あるいは宗教マニアか、聞く側はそういう色眼鏡を掛けるのがふつうであろう。

「実家は、○○教の檀家ですが、まあ、わたしは無宗教ですね」といった方も多いだろう。その家でご不幸があったり、法事などでは檀家として参列し、よく解らないお経を一緒に唱和して、お坊さんの法話を聞き、足が痺れた~で帰ってくる。終われば、また、無宗教者である。または、元旦に近所の神社へ初詣して、新年の多幸を祈るが、無宗教者として、大抵はどんな神を祀っているのかもよくわからず、柏手を打って一礼している。それがごく普通の現代日本人の姿といっていいだろう。

いい悪いの話ではない。無宗教者とは、なにか。実は、かくいう私もそうである。そんなことはないでしょうと、思われるかも知れない。シャーマンを語ったり、ご先祖供養がどうこう言ったり、高野山へのぼって祈ったりしているのだから、あなたは宗教者じゃないのと。しかし、私は、そういうことを宗教と思っていないと言えば、どう理解されるだろうか。

宗教とはなにか。開祖がいて、その教理経典に基づき、ある宗派を信望して、その組織に帰属するおこないが宗教である。私はどこの宗派にも属さないから、無宗教者なのだ。ただし、実家が大昔から村内で所属してきた宗派があるから、当家を名乗る限り、その檀家ではある。仏事ではお世話になってもいる。あれは日本の社会生活に欠かせない機能である。別名、葬式宗教とも呼ばれるが。

宗教とは、組織なのだ。ある意味で会社カンパニーと同じである。その組織が存続し、社会に影響を与え、利益供与があり、他の組織と競合するといった活動である。だから、いい会社も悪い会社もあるように、推して知るべしだが、その判断は価値観の相違もあって容易ではない。

元来、フリーで渡り歩く性質の私は、どこかに所属することなく、そのときどきでご縁のあるところへ行き、ご縁のあるなりに活動させてもらっているということだ。その感覚を、分かり易くするために「ひとり宗教」と呼んで説明する場合もある。なんだ、それなら、やっぱり宗教者じゃないか。たしかに宗教という言葉を使っているのだから、そう判断されても無理はない。出口王仁三郎さんは、「世間では大本教といわれるが、教ではないので、大本と呼ぶ」とおっしゃっていたというが、それに倣うなら、「ひとり神仏」とでもしておこうか。仏をまとい、神やどすのが人間なのだから。