パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

京田辺市大御堂観音寺&桜・菜の花

2019年04月06日 | 日記
京田辺市普賢寺という地名にある「大御堂観音寺」に行ってきました。
京田辺市のスタンプラリーイベント会場、「普賢寺 ふれあいの駅」に隣接しています。

  
普賢寺ふれあいの駅 京田辺市の観光大使「キララ」ちゃん
*キララちゃん;平成21年3月28日に誕生した、キララ商店街のマスコットキャラクター。(永遠の4歳)



京奈和道の高架下、普賢寺谷付近のふれあいの駅


大御堂観音寺参道と常夜燈


鐘楼と本堂への参道



天武天皇の勅願により義淵僧正が創建した。
その後,聖武天皇の御願により良弁僧正が伽藍を増築し、
息長山普賢教法寺と号し、十一面観音立像を安置したといわれている。
法相・三論・華厳の三宗を兼ね、七堂伽藍は壮麗を極めて「筒城の大寺」と呼ばれた大寺院であったと伝えられている。
幾度となく火災に見舞われ、永享9(1437)年の火事では、諸堂13、僧坊20余りを数えた建物のほとんどが失われ、
大御堂だけが再建され現在に至っている。
現在は、本堂と庭園が周囲の里山に調和し、美しい姿を見せており、春には参道の桜並木や一面に広がる菜の花が、
秋には紅葉がひときわ目を引く。
十一面観音立像 天平仏(奈良時代中期)を代表する仏像で、昭和28年国宝指定。
天平16(744)年良弁僧正(ろうべんしょうじょう)開基時の仏像。
一木式木心乾漆造(いちぼくしきもくしんかんしつづくり)、
漆箔(しっぱく)(下地の上に漆を塗り金箔で表面を加工)仕上げ。
立像は度重なる修理によって形を変えていた部分もあったが、昭和期の高度な補修技術により現状の姿に整えられた。
本体では、頭上面中の七面、右耳朶(じだ)、両手の指(右第五指を除く)、本体以外では天衣や持物などが後補されたもの。当初の蓮肉と敷茄子をそのまま使用し、そこに蓮弁と反花(かえりばな)、八稜形の框(かまち)を付け足した六重の蓮華座に、静かに安置されている。
像高:172.7センチメートル 重量:66.0キログラム。度重なる火災により、現存しているのは本堂、庫裡、
鎮守(ちんじゅ)の地祇(ちぎ)神社だけである。
本堂は昭和28(1953)年3月に再建された。単層で入母屋造、本瓦葺で南に面している。
境内の西方、丘陵上には塔ノ跡と称されるところがあり、奈良時代末期から平安初期頃の作となる布目瓦(ぬのめがわら)が散在している。
またその中央には大きな石が置かれているが、おそらく付近一帯に建てられていた堂塔の礎石の一部だと思われる。
本堂の前には松香石(しょうこうせき)製の層塔残闕(ざんけつ)があり、様式からすると平安後期の作であるという。
(京田辺市観光協会)



本尊 国宝 十一面観音像(ガイドブックより転載)


本堂横に地祇神社の鳥居と説明書

地祇神社

大国主命、大山祇命、活気長足長比売命をまつる式内社である。
明治初めのころは、地主神社と呼ばれていた。
正徳元年(1711)の『山州名跡志』には、大御堂(現在の観音寺)の鎮守として
権現大明神と地主権現の二社がみえる。
現在の本殿は三間社の流造で覆い屋のなかにある。
この覆い屋の石壇に「天文十辛丑年(1541)卯月吉日大西備前守」と刻まれたものがある。
当時、このあたり普賢寺谷の地侍たちは惣氏神の朱智神社や惣氏寺の普賢寺を中心に結束し、
大西氏は指導的立場のひとりであった。
元亀四年(1573)将軍足利義昭が槙島城で織田信長に対し挙兵するが敗れ、
義昭は普賢寺谷を経て河内若江城に出奔する。
地元の所伝では、大西備前守敏元が足利側でこれに参戦し将軍に従い若江城で討死したとされる。

               例祭 十月十八日

          京田辺市 教 育 委 員 会
           京田辺市文化財保護委員会


鳥居を潜り階段を登ると右手に二棟の祠


大国主命、大山祇命、活気長足長比売命?
近隣の天王に祀られていた「牛王天王」をお寺の鎮守に勧請されたとか?






御祭神を守護する狛犬も金網に守られています 

お寺の参道の両側は、菜の花畑に桜
    

なの花を 敷き詰め迎え かんのんじ

参道に 黄色き散華 おおみどう







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