パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

義仲寺(ぎちゅうじ)

2018年11月02日 | 日記
芭蕉のお墓が義仲寺にあるとのことで出かけてきました。
当日は、植木屋さんが入っておられ写真に苦労しました。

義仲寺について
お寺としては、天台宗の単立系寺院である円満院の末寺とのこと。
パンフレットによると、
当寺は、木曽義仲が信濃で平家討伐の挙兵をし、北陸路に平氏の大軍を打ち破り京都に入ったが、
源頼朝の命で都にのぼって来た範頼、義経の軍勢と戦い享年31歳で討ち死に。
その後、御墓所のほとりに、尼僧(義仲側室巴御前の後身)が草庵を結び供養していたが、
尼の没後、この庵が「無名庵」ととなえられ、巴寺、木曽塚、又は「義仲寺」と呼ばれた。
貞享年間(1684〜8)大修理された記録があり、芭蕉翁が来訪し宿舎としたのは、この頃から。
芭蕉は、この義仲寺や幻住庵に暮らしながら、湖南の門人に俳句の指導をしていました。
芭蕉は元禄7年(1694年)10月大阪にて客死しましたが、
遺言には「ここは東西のちまた、さざ波きよき渚なれば、生前の契深かりし所也」と記されており、
その遺骸は門弟達に運ばれて義仲寺境内に埋葬されています。

 



 
木曽義仲公供養塔         俳聖松尾芭蕉の墓

「木曽殿と背中合せの寒さかな」 又玄(ゆうげん)

 
宝篋印塔(木曽塚)              墓標


 
木曽八幡社


本堂「朝日堂」
本尊 木彫聖観世音菩薩 
左 義仲、芭蕉…位牌 右厨子 義仲、義高公父子の木造

 
「翁堂」


翁堂の扁額


翁堂正面


芭蕉座像上部に「正風宗師」の扁額


丈艸居士               芭蕉翁座像              去来先生


天井には伊藤若冲筆「四季花卉の図」
左右の壁上には「蕉門三十六歌仙」の画像  

 
伊藤若冲筆「四季花卉の図」・解説

 
「無名庵」
芭蕉は何度も訪問、滞在したお気に入りの場所。
東海道に面し、かっては琵琶湖も眺望できた…。
元禄四(1691)年新庵落成。
1691.6.25〜9.28芭蕉は滞在。

 
現在の室内の様子

 
山門の右にある「巴 地蔵堂」
義仲の側室で、巴御前を祀る。
尼となって義仲を懇ろに供養。


芭蕉に因んで境内には「バショウ」が植えられ、花を咲かせていました

根元の句碑 「行春をあうみの人とおしみける 芭蕉桃青」

 *芭蕉の俳号は、当初は本名「松尾宗房」から「宗房(そうぼう)」と名告っていましたが、
 次に「桃青(とうせい)」と名告りました。この俳号を称した意味には諸説あるようです。
 江戸に出て俳諧師となったときに結んだ庵の名が「草庵」、そこに芭蕉の木を植えたのが大きくなって
「芭蕉庵」と呼ばれるようになったことから、 後、俳号に「芭蕉(はせを)」をつかうようになっています。
 あらたまった場では「桃青」の俳号を用いていたようです。また「桃青芭蕉」の署名もあります。
 年代的には、近江に滞在していた頃「はせを」としていたと思われますが…
 自筆の書と言われているこの句は「芭蕉桃青」

年表による俳号
 1667  寛文7 24歳 松尾宗房
 1675  延宝3 32歳 桃青
 1682  天和2 39歳 芭蕉


史料館にて販売されていた自筆の拓本の軸
(ごめんなさい、パチリとしました)


バナナではありません。バショウの苞は黄(褐)色、バナナの苞は赤紫色だそうです。
上方に雌花を付け、花茎はさらに伸び、やがて先端部には雄花を次々と付けます。

 
翁堂の縁側より、気合を込めて撮りました。


境内見取図


御朱印 芭蕉翁「正風宗師」          義仲公「朝日将軍」





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