パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

盆梅展と大和郡山城

2016年02月22日 | 日記
先日、追手向櫓内で開催されている、大和郡山城盆梅展に行ってきました。
梅に因んでか、近くの菅原天満宮・菅原の里でも盆梅展が開催されています。
また、京阪神では長浜の盆梅展が有名で、一度行ったことがあります。

会場の盆栽に樹齢が表示されていませんが…幹をみると朽ちているかと…驚くほど見事な古木?も。
しかしながら「悠妃」、「秀長」、「大納言」などと名付けられ、多くの蕾、花をつけています。
訪れた時期が早かったせいもあり、未だ少し咲はじめ…といったのが実感でしたが。


 
 

郡山城の見取図(クリックすると拡大)



追手門(梅花門)              追手向櫓              追手向櫓の盆梅展入口


「悠妃」と名付けられた盆梅

 







城跡会館(旧県立図書館の移築)         正面鬼瓦


天守台跡と内堀


観世流祖 観阿弥供養塔


 
城内から見た追手門            追手向櫓  


東隅櫓                東隅櫓と追手向櫓


大和郡山城と言えば、徳川時代の藩主柳沢氏をはじめ親藩大名の居城としての印象が強いのですが、平山城の後に築城したのは、天正8年の筒井順慶です。
天正13年には秀吉の弟、秀長が郡山城に入城して、紀伊、和泉、大和の三カ国百万石の太守・大納言としての壮大な高石垣の城に大拡張工事を行いました。
その天守閣は諸説の中「幻の天守閣」と言われていましたが、平成26年天守台跡の石垣補修工事中に、礎石など遺構が発見され、天守閣の存在が確認されました。
そして、さらに「金箔瓦の破片」が発見され話題になりました。
金箔瓦は、織田信長の築いた安土城はじめ、織田家の権威の象徴としての築城に、豊臣秀吉が京都に建設した聚楽第、伏見城や、大阪城など、
豊臣家の権威誇示の象徴として築城に使用されたと言われています。
秀長の郡山城もその一つですが、徳川時代に天守閣が二条城に移築されたとも言われ、金箔瓦は全て持ち去られ、5センチ程度の破片が発見されたことが奇跡とまで言われていたそうです。
このたび、大和郡山市の協力により、この出土した破片を元に、天守閣に葺かれていたと推測される金箔瓦を、帝塚山大学考古学研究所と奈良県瓦センター株式会社が共同で、菊を文様にした菊丸瓦を復元、大阪城の軒丸瓦、聚楽第の軒平瓦を参考に想像して軒丸瓦、軒平瓦を復元し、大和郡山市と郡山城にある「柳澤文庫」に寄贈されました。
復元されたのは、屋根の頂上を飾る菊文様の「①菊丸瓦」と、屋根の軒先に使用した「②巴文軒丸瓦」と「③唐草文軒平瓦」の3種類です。


①菊丸瓦


   ③軒平瓦  ②軒丸瓦  ③軒平瓦  


(第19回こおりやま歴史フオーラムの資料参考、展示された復元瓦の撮影写真)

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