パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

手向山八幡宮御例大祭・転害会

2017年10月06日 | 日記
10月5日は先ず手向山八幡宮で御例大祭が行われ、次いで「東大寺転害門」で、「転害会」が執り行われます。
転害門は、天平勝宝元年(749)東大寺建立のため、九州豊前国宇佐八幡宮より、分祀した八幡宮神を載せた神輿の御旅所となりました。
そして、平安時代には「八幡宮祭」と呼ばれ、転害門が祭礼のお旅所になり、鳳輦(ほうれん)と神輿の三基が門の中央に安置され、門の西面に長い大きな注連縄が結わえられます。手向山八幡宮の祭礼の時に神輿遷座の門となり、祭礼の行列はここから出発し、手向山八幡宮に向かいます。この八幡宮祭が転害会と呼ばれるようになったのは、この門の位置が大仏殿の西北にあり、吉祥の位置で害を転ずる意から転害門とも呼ばれ、祭礼の名前にもなりました。
転害門には、今でも「〆の子を5っ下げた10mの大きな注連縄」が飾られています。東大寺と注連縄…神仏習合…ですが、八幡宮の注連縄なんだったのですね。
4年に一度の架け替えで、今年新しくなりました。注連縄の藁は、地元と大分宇佐小学校の生徒が育てた藁が使用されたそうです。
因みに、注連縄ですが、縄の部分は「縄」と、下に下がっている藁の部分は「〆の子」と、白い紙は「紙垂」と言います。それぞれには意味があり「縄=雲」「〆の子=雨」「紙垂=雷」で、農耕社会での豊作を願うものとも言われています。

門の中央に神輿(みこし)と獅子頭(ししがしら)2体などを安置されますが、地元の方が言われるには、門の中央に鎮座している神輿は、以前は大きな神輿だったが今は小さな鳳輦が置かれている…と。鳳輦は天子の乗り物だから「御祭神の八幡神 応神天皇」になるのかな?
11月25日には、15年ぶりに、宇佐神宮の神輿が来寧するとのことですから、古の再現を見てみたいものです。
転害会では、修祓の後、宮司が祝詞を奏上、宮司に続いて東大寺の僧や氏子らが玉串を捧げた。
僧侶が玉串を捧げ、柏手を打ち拝礼される姿を見ると、「神仏習合」が生きている…と。奈良では、興福寺と春日大社等でも行われています。


転害門と中央に神輿


獅子頭               神輿(鳳輦)


宮司拝礼

 
僧侶拝礼

神事が終わると舞楽が奉納されました。
演目は「散手(さんじゅ)」
鼻高の面で、鉾を持って勇壮に舞う。艶やかな装束が目を引きます。
この曲は左方武舞の名作で、序と破からなる代表的な走り舞です。「陵王(りょうおう)」とも呼ばれます。
この舞楽は、神社や演奏会などでよく演じられる曲です。
一人舞の武ノ舞。正式には《散手破陣楽》,別名《主皇(しゆこう)破陣楽》ともいう。番舞(つがいまい)は《貴徳》。裲襠(りようとう)装束に竜甲(たつかぶと)(《貴徳》も同種)をかぶり,威厳のある面をつけ,太刀を腰に手に鉾をもって舞う。「釈迦が生まれたときに作られた」とか,「神功皇后が朝鮮を攻めたとき,率川(いさかわ)明神が兵士たちを指揮した姿を舞にしたもの」とか言われています。
我が国への伝来は不詳です。(ウイキぺデイアなど参照)
「舞楽」には唐楽と高麗楽の2種類がありますが、唐楽による「舞楽」を左方(さほう)、高麗楽による「舞楽」を右方(うほう)と呼んでいることから、散手が左方舞ということは唐楽に類し「釈迦が…」説が起源で「神功皇后の三韓征伐…」は、我が国でのアレンジかな?
 




 

 

  
威厳のある武人面       竜甲(たつかぶと)

 
鳳輦の左右の獅子頭

16世紀はじめ、
伊勢の国(三重県)で飢饉や疫病除けに獅子頭を作り、
正月に獅子舞を舞ったのが発祥と言われていますが、
神輿渡御の際には、露払いの役を果たしています。

おまけ…
東大寺勧進所八幡殿にある木造僧形八幡神像(快慶作、国宝)は、もと手向山八幡宮にあり、明治の神仏分離の際に東大寺に移されたものだそうです。10月5日に公開されるのは、手向山八幡宮で御例大祭・転害会に因んでいるのでしょう。

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