パパとりの雑記帳

酉年生まれの後期高齢者。健康不安を抱えながら、新聞、TV等からの情報を元に、好奇心に駆られて、近郊の社寺を中心に散策。

紫式部・小野篁の墓所

2017年09月16日 | 日記
堀川北大路から堀川通りを今出川まで散策していると…
島津製作所紫野工場の一角に狭い通路に「紫式部墓所」の墓標があり、季節柄「ムラサキシキブ」が少し覆うように垂れていました。


参道を進むと…

紫式部の墓


前に墓石と後ろに石塔その間は少し土盛りがあります。


顕彰碑

何故ここに墓所が?紫式部と言えば、住居跡とされる「蘆山寺」、源氏物語を構想したと言われる石山寺が有名ですが…没年については、「顕彰碑」には『長元四年(1031年)とする説が有力である』とあり、紫式部の墓は、『「河南抄」その他の古記録は、雲南院の塔頭の白毫院の南、すなわち北区紫野南御所田町に存したと伝えてゐるが、この所傳には信憑性が多い』とあります。また説によれば、此の地は、比叡山東塔竹林院の里坊「安居院」の周辺にあたるとされ、終焉の住居地から推定されているようです。
が、史実検証はその分野に任せておけばいいと思いロマンに浸りました。

*雲林院は紫式部が晩年を過ごした寺と言われ、「源氏物語」第10帖「賢木(さかき)」の巻では「秋の野も見たまひがてら雲林院にまうで 給へり」と記されており、紫式部墓所もかつて此の境内にあったと言われています。




紫式部の墓の隣に「小野相公」の墓


入口は紫式部墓所の参道の横「小野篁卿墓」


「小野相公墓」


「参議小野公塋域碑」

自分では判読できないので、ブログに載せられておられる方の大意を再掲します。
『慶応四(1868)年の夏,わたし(筆者金田清風)は金沢藩家老の横山様に従い京都へ出張した。ある日横山様がわたしに語ったことは「わが家は小野篁公の子孫である。臣下に下った者のうち,子孫が現存している家は数少ないが,幸いにわが家は前田家という大大名に仕え今日に至った。ひとえに先祖のおかげである。しかし篁公は遠い先祖であり,その葬られた土地が判らないのが残念である。京都の西の郊外に墓があるとは聞いたので,本家の子である隆淑に捜しに行ってもらったところ,紫野にあることをつきとめた。年来の願いがこれで果たせた。そこで記念する石碑を建てたいが,あなたにその文を作ることをお願いしたい」と言われた。わたしは承諾したが,果たさないまま金沢に帰ることになった。
 翌年,石碑を建てる準備が整い,いろいろと調べてみると,墓は野原の中に久しく放置され,ろくに保存もされていない。ここだということを示すような石碑もないありさまである。ただ寛政年中(1789~1801)に秦なにがしという人が残念に思い「小野相公墳」と記した石標を建て,墓への通路を作り,始めてそれと判るようになった。
 墓は塚の西北の一角がなくなっていて,あたかも二つの塚があるように見える。そこで近くの人々は一方が小野篁公の墓で,一方は紫式部の墓だと言うようになった。そもそも篁公と式部は時代も違えば,たがいに関係のない人物である。こういう説はいっこうに理屈に合わない
 ここに石の柵を新たに作り,きちんとした通路を作り,お参りする人にもはっきり判るように墓地を補修した。これ以降は墓が荒らされるようなことはないであろう。しかし古いありさまを改めることはしていない。ただ秦氏の建てた石標を墓所への入口へ移しただけである。横山様が墓所を補修できたのも先祖のおかげだが,秦氏の功績も忘れてはいけない。秦氏が何者かは明らかではないが,さだめて徳のある人格者であろう。
 これ以降,秦氏のような人々がかわるがわる墓の面倒を見ていけば,墓は将来にわたり保存されていくであろう。横山様が碑文をわたしに依頼したのも,この志があるからであり,わたしが未熟でありながら,あえて引き受けたのもこのゆえである。横山様は名は政和,篁公の四十四世の子孫,本家の隆淑は四十六世の子孫である。』

朱書したところは、二つの墓について、篁一族の見解による謎の提起かな…式部の墓はあとから建てられた…。
少なくても、慶応五年には同じ場所に墓が在ったことは確かだし、篁853年、式部1031年、と篁が早く亡くなっているのも確か。
雲南院の塔頭の近くに式部の墓が在った説の場所がどのように重なるのか…
紫式部は源氏物語において,煩悩の世界を描いたことで、死後地獄に落ちたと言われていた…一方で小野篁は閻魔大王のもとで裁判の補助をしていたと言われ、「六道皇珍寺」の井戸から、あの世とこの世を行き来していたという伝説があります。
そんなこんなで、地獄に落ちた紫式部を小野篁が閻魔大王に取り次いで彼女を地獄から解放した、というのが彼女のお墓が小野篁の隣にある理由だとする説も。
秀吉の京都市街大改造で多くの寺院などが移転しており、式部の墓も移転の折、意気な計らいで、源氏物語で有名な紫式部の、極楽往生を願って墓が移されたのではないだろうか…?


*「相公」;宰相・相公は、参議の中国風の呼び方で、篁がこの職にあったことから、
そのように呼ばれます。相公は宰相公を略したもの
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