知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『木村政彦は力道山より強かった!』 ―「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の読後に分かった―

2019-02-22 07:54:31 | 格闘技

                          『木村政彦は力道山より強かった!』

     ―「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」の読後に分かった―

ウキペデイアから引用

 柔道界のレジェンド・木村政彦は、奥様の結核治療のストレプトマイシンを、アメリカから輸入(当時は個人的に輸入)するお金のために、プロ柔道を立ち上げ、そして失敗・解散から、プロレスへと進んだ。 力道山は相撲界からプロレスへと進み、稀代の興行主兼プロレスラーとして成功した。

 

 全盛期の木村政彦は、戦争を挟んで日本選手権13連勝で15年間無敗の成績であったが、このレジェンドを講道館は七段以上には昇段させなかった。

(何故か、戦前の連勝記録のリストがウェブ情報でも見られません)

 

 力道山、全盛期に引退、幕内の勝率は、0.581、75勝54敗15休、 フェアーに比較するには、現時点での現役、129戦以上の幕内力士の勝率トップ5は;

❶白鵬0.851 ➋日馬富士0.648 ❸照ノ富士0.624 ❹稀勢の里0.605 

❺琴奨菊0.562           力道山の成績は際立ってはいない。

 

 講道館と全柔連の方針・動向に思いを馳せながら、柔道の変革、打撃技(当て身)なしで寝技も制限、立ち技中心の現在の柔道になった。これも当時の嘉納治五郎館長とは異なる方針の三船十段の意志貫徹の結果かと考えさせられる。

 東京五輪の無差別級で神永五段がオランダのヘーシンク四段に、ナント日本のお家芸、寝技『袈裟固め』(ヘーシンクは講道館・天理大学で柔道を学び寝技も得意)で敗れ、銀メダルになった結果はあまりに有名。 ヘーシンク198㎝・120㎏ vs 神永179㎝・102㎏、この身長・体重差(特に足の長さは『袈裟固め』に有利。 この東京五輪で、ヘーシンクに対して、すでに47歳の木村を当てようという話も出たほどに、講道館滞在研鑽時のヘーシンク四段(当時)を木村五段(当時)は、全く相手にしてなかった。

 

 力道山はメディアや政財界の大物を後援会にプロレス興行を大成功させた。 その間 木村政彦はずっと『ヒ―ル役』でした。 これも奥様への新薬ストレプトマイシン新薬購入のため。 ヒ―ル役から二強共存でヒーローの交替制興業実現を狙い、柔道出身の、木村政彦は、相撲出身の力道山に挑戦、『昭和の巌流島』といわれる『世紀の一戦』をブック(筋書き)ありで、戦うことになり木村政彦は、いつもの『素足』で1954年12月22日に戦われた。 

 ブックには、『木村の当て身』だけは禁止とあったが直前に『腕がらみ技』さえも禁止になった。 全盛期の相撲出身者力道山(30歳)が、ここまで恐れた、全盛期を過ぎた木村柔道(37歳)の凄さを想います。 ブックには、第一戦は各一本取り合い引分けとあったが、木村の反則(と云われている)の素足での急所蹴りを引き金に、ブックなしの、ガチンコ・セメント勝負になり力道山の拳打ち空手チョップではない)と、金具のカバー付きのつま先蹴りで木村が敗れ、意識不明になり、山王病院、に担ぎ込まれた。 その後、木村政彦は格闘技の世界から消えた。

 

 プロレスは、益々、大盛況が続いた。 9年後、この同じ病院に、やくざに、刺された力道山が救急搬送され、そこで亡くなった。

 

 木村政彦の恩師、牛島辰熊は、過去2回の天覧試合(不定期)、第一回(昭和4年)と、第二回(昭和8年)に決勝で敗れ、優勝を逸している。 自分の分身として木村政彦をスカウトして、自宅に下宿させて鍛えた。 木村政彦の指導・練習稽古は厳しく、特に、大外刈りは、失神者もよくでて、警視庁にも講道館にも練習相手がいなくなり、脱臼者も、続出するので、この大外刈りは禁止された。 さらに、『腕がらみ技』も、禁止されるほどであった。

この『腕がらみ技』も『昭和の巌流島』では当然、禁じとブックに書かれた。

                                      

下記はウェブ情報からです。

ブラジリアン柔術の最強のレジェンド・エリオ・グレイシーとの死闘

 木村は2Rで得意の大外刈から腕がらみに極め、エリオの腕を折った(脱臼等の暗喩ではなく紛れもなく「骨折」である)。しかしエリオはカーロスとの約束を無視して強靭な精神力でギブアップせず、木村も骨折したエリオの腕を極めたまま、さらに力を入れ続けた。会場が騒然とする中ついに試合開始から13分後、セコンドのカーロスがリングに駆け上がり木村の一本勝ちとなった(カーロスがリングに上がり、ギブアップをしないエリオの代わりに木村の体をタップ。 代理のタップのため審判と揉めるも、既に決着は付いていると双方が認めたため決着。 詳細は「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」に詳しい)。 後年に木村はエリオの事を「何という闘魂の持ち主であろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。 試合には勝ったが、勝負への執念は…私の完敗であった」とその精神力と、武道家としての態度を絶賛している。 この「腕がらみ」がブラジルやアメリカで「キムラロック」あるいは単に「キムラ」と呼ばれるのは、この試合が由来である。エリオが木村の強さに敬意を払い名付けたとされる。     

 柔道でも格闘技の世界でも弱者でなかった故に判官贔屓にもされず、それらの世界から消えたが、やはり、木村政彦は力道山より強かった。 では何故、こうなったのか、ウェブ情報からです。

 

 戦後。食えない時代にプロ柔道に参戦したこと、さらにプロレスラーに転向して力道山と不可解な謎の試合を行い、これに敗れたため、講道館をはじめ戦後の柔道界は木村の存在そのものを柔道史から抹殺し、柔道・プロレスマニア以外にその名を知る者はいなくなっていった。

(2016,12.25 纏め、20190222改、20201004追補、2020117追補


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