知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『日本の城郭 10 堅城・月山富田城と、山中鹿之助旗下の尼子十勇士』―尼子十勇士をモデルに創作されたのが真田幸村信繁麾下の架空の真田十勇士―

2019-10-24 11:55:36 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 10 堅城・月山富田城と、山中鹿之助旗下の尼子十勇士

―尼子十勇士をモデルに創作されたのが真田幸村信繁麾下の架空の真田十勇士―

 

先日、BSプレミアムで『悲劇の山城スペシャル(1)難攻不落!月山富田城~尼子vs毛利、史上最大の籠城戦~』で紹介されていました。 月山富田城は、『天空の城』と呼ばれ島根県安来市広瀬町富田の、標高184ⅿの月山に築城された日本五大山城と、日本五大山岳城に数えられています。

この堅城を舞台に、血沸き肉躍る大活躍をした、実在した山中鹿之助と尼子十勇士鹿之助と、6勇士の秋山宗信・横道英綱・五月早苗介・藪中刑助・寺本生死助・井筒女之介までは古文書に名前の記録があるを、モデルに創作されたのが、真田幸村信繁麾下の架空の真田十勇士(三勇士のモデルはいたらしいが、十勇士は実在はしなかったの活躍を、大の判官びいきの江戸町民としては、錦絵・芝居・浄瑠璃等に取り上げられたのを楽しんだのは当然でした。

昔、少年時代に、真田幸村と真田十勇士のメンコ・漫画・小説を楽しんだものでしたが、山中鹿之助と尼子十勇士、実はこちらが十勇士の本家でした。 今回のテーマとその主役は『月山富田城と山中鹿之助と尼子十勇士』です。

難攻不落で知られる尼子氏の本拠・月山富田城跡俯瞰 

ウエブ情報から引用

 

この等高線立体図、城郭の縄張り前の場所選び感性の凄さに感心します。

ウエブ情報から引用

山城は、籠城に備えて築城をしますので、飲み水が必要条件になります。 この堅城には、湧水量は不明ですが、現在確認されているだけで、二の丸に二ヶ所、三の丸,山吹、山中御殿にそれぞれ一ヶ所と合計四ヶ所、その他、湧水・沢水もあったようで堅城の重要な要件を満たしています。

余談です。

日本列島には、3万とも4万ともいわれる山城跡が存在する。それらの大半は14世紀から17世紀までの間に築かれたものである。 わずか300年間にこれだけの城が構えられたことは世界史的にみても日本だけであり、日本の中世はまさに大築城時代であった。

難攻不落の城として知られる月山富田城は、大きな戦いは、一勝一敗でしたがその後の第三次の尼子再興軍による毛利月山富田城包囲攻めも失敗でしたので尼子としては、一勝二敗の結果に終わりました。 この間に活躍したのが、山中鹿之助を将とした尼子十勇士でした。 やはり判官びいきの日本です。 戦いは、時(時代)の運と勝利の女神の微笑み次第でしょうか。

 

第一次月山富田城の戦い、山内・毛利連合攻城軍 対 尼子籠城軍・ウエブ情報の抜粋

天文11111日(1542126日)に出雲に向かって大内軍本隊が出陣。 大内軍は義隆自らが総大将となり、義隆の養嗣子大内晴持も併せて出陣、毛利軍も大内軍に合流した。 天文12年(1543年3月になって攻防戦が開始されたが、城攻めは難航する。 糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しむ。 国人衆が再び尼子方に寝返った。これにより大内方の劣勢は明白となった。

57日、大内軍は撤退にとりかかり、毛利軍には殿が命じられていたが、尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、壊滅的な打撃を受けた。 安芸への撤退を続ける毛利軍であったが、この時、毛利家臣渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。 この犠牲により元就は吉田郡山城への撤退に成功した。

 これが大内・毛利連合軍45千に対して、尼子軍15千の守り勝ちであった。 籠城軍の三倍では、攻めきれないようです。

 

第2次月山富田城の戦い、尼子攻城軍 対 毛利籠城軍・ウエブ情報の抜粋

当初は、第2次月山富田城の戦いの際も鉄壁の防御を誇ったが、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が亡くなると、嫡男尼子義久が家督を継いだ後に、毛利氏は雲芸和議を経て永禄5年(1562年)には石見銀山を手中に収めることに成功する。 一方の尼子側は、家臣団における不和や雲芸和議による不満の噴出もあって、出雲西部・南部国人衆の多くは毛利側へと離反していた。

白鹿城は月山富田城の日本海側の玄関口ともいうべき役割の城で、月山富田城を孤立させるためには、この城を落とすことにより船で日本海から兵糧を運び込ませるのを防ぐ必要があった。 白鹿城攻略のため、白鹿城の北にある真山(新山)城を元春が占拠して布陣し、さらに和久羅山を押さえ、中海児玉就方麾下の水軍を派遣して封鎖するなど、白鹿城と月山富田城の分断を進めた。

9月下旬になって、尼子側は義久の弟である尼子倫久らが援軍を白鹿城に送ったが、毛利軍の包囲網を突破することはできなかった。 後詰が敗退したことで城兵の士気は下がり、10月に降伏した(白鹿城の戦い)。

白鹿城を制圧した毛利元就は、尼子氏の拠点を次々と制圧し、毛利軍は月山富田城への総攻撃を行った。 士気旺盛な尼子軍は善戦し、連日攻め立てる毛利軍の城内侵入を阻止した。 28日に総攻撃を中止した元就は、洗合城に一時撤退した。

永禄8年(1565年)9月、再び毛利軍は月山富田城を包囲した。 この時、飯梨川を挟んで対峙していた両軍の中で、山中幸盛(鹿介)が品川将員(狼介)を一騎打ちで討ち取ったとされる(山中幸盛・品川将員の一騎打ち)。

しかし、毛利軍は力攻めを行わずに兵糧攻めを続けたため、やがて城内の兵糧が窮迫した。 その頃には投降者も出始めていたが、毛利側は城兵の降伏を一切認めず、投降した者は処刑された。

永禄9(1566年)1121日尼子氏は降伏。 熊野城など残っていた尼子方の城も月山富田城陥落後に開城した。

これが、毛利軍35千が、守備軍・尼子軍1万に攻め勝ちであった。 城攻め・籠城攻めの得意な秀吉の戦いとは異なり、攻める側の兵が少なく、、毛利側の犠牲が多かったようです。

 

尼子再興軍による月山富田城毛利籠城軍包囲戦(第三次)・ウエブ情報の抜粋

滅亡した尼子氏であったが、尼子諸牢人の中には一族の再興を目指す者がいた。その中心となった人物が山中幸盛である 永禄11年(1568年)、幸盛は各地を放浪した後に京へ上ると、京の東福寺で僧となっていた尼子氏一門の尼子誠久の遺児・尼子勝久を還俗させ、尼子再興軍の大将として擁立する。

末次城に本陣を移した尼子再興軍は、かつての尼子氏の居城・月山富田城の攻略に取りかかる。 中国地方の毛利軍は元就の命により多くの者が九州へ出陣していたため、月山富田城も例に漏れず天野隆重ら率いるわずかの兵しか残っていなかった。 月山富田城へ到着した尼子再興軍は、隆重の書状のとおりさしたる抵抗もなく城の奥深くまで進むものの、七曲りの終点付近(三の丸の前)において待ち構えていた毛利軍より急襲を受ける。反撃する間もなく多数の犠牲者・負傷者を出し末次城へ撤退した。

その後、尼子再興軍は山中幸盛と立原久綱らに1,000の兵を率いさせ再び月山富田城を攻める。しかし攻略することはできなかった。

月山富田城を攻略することはできなった尼子再興軍であったが、その後、出雲国内において16の城を攻略、その勢力を6,000余りにまで拡大させた。 出雲国一円を尼子再興軍が支配する状態となった。

出雲国内の支配を着々と進める尼子再興軍であったが、城内では兵糧が欠乏し、また、馬来、河本、湯原氏らが尼子再興軍へ投降するなど、優位な情勢で月山富田城攻略を進めていた。

毛利輝元、吉川元春、小早川隆景らは、休むまもなく尼子再興軍を鎮圧するため吉田郡山城より大軍を率い出陣する。毛利軍は尼子再興軍と布部の地(現在の島根県安来市広瀬町布部)で戦い勝利する(友部山の戦い)翌日2月15日(3月21日))には、城内の兵糧が全く無くなり落城寸前であった月山富田城を尼子再興軍の包囲から開放し救援に成功した。これにより以後の尼子再興軍と毛利軍との攻守は大きく入れ替わり、尼子再興軍は衰亡していくこととなった。

尼子再興軍の戦い様は、後世の人々(特に江戸時代の)に強い感銘を与えたのだろうと思います。

                                                             (20191024纏め #128) 


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