今、出発の刻(たびだちのとき)

車中泊によるきままな旅
<名所旧跡を訪ねる>

成道山 松安院 大樹寺(愛知県岡崎市鴨田町広元)

2020年10月17日 | 神社・仏閣
訪問日 令和2年9月12日

成道山 松安院 大樹寺
この日の予定にはなかった急遽訪れることにした
徳川家の祖先である松平家の菩提寺である

「三門(愛知県指定文化財)」
寛永18年(1641)三代将軍徳川家光が建立した



応仁元年(1467年)松平親忠が井田野合戦の死者を弔うために千人塚を築いた
しかし、塚が振動し、悪病が蔓延するなどの事態となり、増上寺開山聖聡の孫弟子勢誉愚底(のちに知恩院23世)に念仏をさせて、抑えた



「大樹」とは征夷大将軍の唐名であり、松平氏から将軍が誕生することを祈願して、勢誉愚底により命名されたと伝わる



勅額「大樹寺」(重要文化財)
楼上に後奈良天皇の勅額「大樹寺」



<ビスタライン(大樹寺から岡崎城を望む歴史的眺望)>
三門の正面には「本堂」



本堂から見た「山門」



近くにいた参拝者が見つけてくれた「眺望点」



その先には大樹寺小学校校門があり「総門」が一直線上に結ばれている



総門を拡大してみると約3km先に岡崎城が見える
三代将軍家光が、寛永18年(1641)、家康の十七回忌を機に、大樹寺の伽藍の大造営を行う際に、「祖父生誕の地を望めるように」との想いを守るため
本堂から三門、総門(現在は大樹寺小学校南門)を通して、その真中に岡崎城が望めるように伽藍を配置した



江戸幕府の風水思想だが実に興味深い



多宝塔(重要文化財)
急遽この寺を訪れたきっかけになったのはこの多宝塔の存在である
前回うまく撮れなかったこともあり、曇天の中から青空が見えてきたため期待を込めて車を走らせた






この塔は防御柵等により横10mの範囲でしか撮すことができない



さらに今は何らかの理由で枝葉が払われているが、この木の枝で塔の1/3は隠れていた



「鐘楼(愛知県指定文化財)」
寛永18年建立、重層袴月、屋根入母屋造、本瓦葺



「手水舎」



「松平八代墓(岡崎市指定文化財)」









昭和44年、岡崎市民が家康の徳を顕彰して遺品を納めて墓と碑を建立した



元和元年(1615)家康は先祖松平八代廟所を寺内に建立した
元和三年には家康の一周忌が営まれ、現在の墓の姿が整ったとされる






「本堂(愛知県指定文化財)」
安政4年建立、屋根入母屋造、本瓦葺、前面に1間の向拝がついている



永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元討死の報を聞いた松平元康(徳川家康)は、追手を逃れて手勢18名とともに当寺に逃げ込んだ
絶望した元康は、先祖の松平八代墓前で自害して果てる決意を固め、第13代住職登誉天室に告げた



しかし登誉は問答の末「厭離穢土 欣求浄土」の教えを説いて諭した
これによって元康は、生き延びて天下を平定し、平和な世を築く決意を固めたという



「厭離穢土 欣求浄土(えんりえど ごんぐじょうど)」
「穢れたこの世を厭い離れたいと願い、心から欣んで平和な極楽浄土をこい願う」という意味



家康の遺言
1. 遺体は駿府城の近くの久能山に納めること
2. 葬儀は江戸の増上寺で行うこと
3. 位牌は三河の大樹寺に建てること
4. 一周忌を過ぎたあとに、日光に「小さな」堂を建てて、関東の鎮守として勧請するように

「木造阿弥陀如来坐像(愛知県指定文化財)」



平安末期、寄木造、彫目、像高140cm、安政の火災後、京都泉湧寺から迎えられた



欄間の彫刻



浄土宗開祖「法然上人像」



「弘法大師(空海)像」



最後に重文の「多宝塔」



撮影 令和2年9月12日

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