神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

宝塚市立病院食堂で遅い昼食〜川西能勢口駅バスターミナル

2018年02月15日 23時19分50秒 | お出かけ
食べログで公立病院の食堂にしてはおいしいと書かれてあったから、本日のおすすめのてんぷら定食を。


揚げたてだったし、お腹が空いていたから、とてもおいしくいただきました。

お値段も700円とリーズナブルでした。

食事のあとは病院前の停留所から川西能勢口駅バスターミナル行きのバスに乗ることに。


帰りはバスに乗っているだけで川西能勢口まで運んでくれたので、楽勝でした。(^^)

今日は、わずかな交通費とランチ代だけで経済的なお出かけでした。

運動にもなったし、充実したお出かけでした。\(^O^)/

(完)

今日は宝塚をブラBIKOすることに(その3)

2018年02月15日 23時01分34秒 | お出かけ
先ほどの記事の巡礼街道の突き当りにあったのが、豊臣秀吉が茶会を開いたという豪摂寺(ごうしょうじ)である。

左手に写っている建物は、宝塚市立小浜宿資料館である。

その手前のこの場所は四つ辻になっていて、右側(西側)を見ると大きな神社があった。


近くに行って見ると、皇大神社と書かれてあったので、参拝させていただいた。


↓これが拝殿。


境内には大木が植わっていた。

椋木だそう。

この樹木は宝塚市自然環境の保全と緑化の推進に関する条例により指定された保護樹林ムクノキ
と書かれてあった。

また元の四つ辻に戻ってきた。

宝塚市立小浜宿資料館は開館中であったが、疲れて見る根気がなかったので、また次回来た時に見せてもらうことにしよう。


宝塚市立小浜宿資料館の前の道を東向きに歩いて右に曲がると、先ほどの豪摂寺の東側の塀になっていた。


↓これは東門?


↓少し歩くと、こういう祠があった。

阪神大震災でよく壊れなかったものだ。

なおも小浜地区を歩いていると、先日バスで来た宝塚市立病院に来た。

そうだ。この病院も小浜地区にあったんだ。

(続く)

今日は宝塚をブラBIKOすることに(その2)

2018年02月15日 22時14分45秒 | お出かけ

売布神社を参拝したあと、

また阪急売布神社駅まで戻って、今度は駅の南側の小浜を目指すことにした。

この小浜地区は、昔は、現在賑わっている宝塚歌劇のある宝塚駅周辺よりもずっと賑わっていたらしい。

このことを知ったのは、先日のNHKの番組「ブラタモリ」の「宝塚」であった。

それで私も行ってみたくなったのである。

地図は持参してきたが、初めての場所なので、行き方がわからない。

↓阪急と平行して走っているJRの線路の下を潜って、


しばらく歩いてから、今度は右向け右して中国自動車道の高架下を潜って、


米谷(まいたに)というところに来た。

地図で見ると米谷と小浜はすぐなのだが、行き止まりが多くて、なかなか小浜に行けない。

お濠というか深い谷があって、すぐ近くの小浜に行けないのだ。

これは、ブラタモリでも説明があったが、昔、豊臣秀吉がこの小浜で茶会を開いたりしたお寺のあった地区を守るため、谷を深くして堀代わりにしたらしかった。

が、

米谷地区の一つの突き当りに次のような看板があったから、ここから小浜に行けると思った。



右手を見ると深い谷に降りる階段があった。


これを降りて、もしまた戻ってこないといけなくなったらと心配したが、ほかに行く道が見つからないので、降りた。

降りて正解だった。

降りたところは谷になって、水が流れていたが、その川には橋が架かっていたので、向こう側にわたることができた。

この橋が「たぬき橋」だったようだ。


その渡ったところが小浜地区だった。

やっと到着した小浜地区には、このような表示板があった。



↓案内の通りに行けば、昔の巡礼街道に。

「小浜宿」と書かれた家があった。




江戸時代は、この辺りは宿場町だったのだ。

阪神大震災までは、もっと建物がたくさん残っていて、現在よりずっと宿場町の面影が残されていたらしい。

↓その説明を書いた立て札もあった。




売布神社

2018年02月15日 21時07分53秒 | お出かけ
上は、さっきの記事の鳥居の手前に立って撮影した写真ですが、けっこう急な階段です。

鳥居をくぐると、売布神社を取り囲む森の木々の説明が書かれてありました。

シイやカシの木の林に赤松が植えられて、それが森になったと書かれてあったような。

昔は住宅もほとんどなくて、もっとうっそうとした森だったでしょうね。

こちらが本殿です。


実物は写しそびれたのですが、売布神社標石の説明です。


こちらは本殿の右側に建てられている神武天皇遥拝所。

この遥拝所から東に向いて拝めば橿原神宮の神武天皇陵を拝めるのでしょうか?

↓こういうふうに新たに木を植えて森を維持している一方、


↓切られて切り株になっている木もありました。


↓大典記念樹と書かれたこの木はカメラに納まり切らないくらい大樹ですが、石碑の裏側に大正四年十一月十日と書かれてありました。

植えられたときは小さな木だったのでしょうが、100年たつと、こんな大木になるんですね。

↓売布神社の由来という説明板もあったから撮影。

これによると、今から1400余年前の推古天皇十八年のご創建で、御祭神は下照姫神(大国主神の姫君)と その夫君の天稚彦神だそう。

この売布神社は、東側の中山寺と、西側の清荒神と比べると、地味だけれども、なかなか歴史のある神社ということがわかりました。

↓上ってきた急な階段を撮影。


このあと、売布神社駅の南側の小浜に向かいます。

今日は宝塚をブラBIKOすることに(その1)

2018年02月15日 18時21分14秒 | お出かけ
まず、昨日も記事にした阪急川西能勢口駅に。

道路上に高架されているところが駅になります。

↓その駅に行くために、陸橋のようなところにあがらなければなりません。
駅は2階にありますから。


↓駅のある陸橋の上にあがりました。

向こうに見えるドアが川西能勢口駅の入り口になります。


これが駅構内です。今日は暖かいから出かける人が多いようです。


川西能勢口駅で乗りましたが、次駅の「雲雀丘花屋敷行き」でしたから、ここでいったん降りて次の電車を待ちます。


この駅は雲雀丘学園という学校の駅前にもなりますから、この学校の生徒たちには、朝は特別にこういう抜け道が用意されていて、この抜け道を出ると直接学校に入れるようになっています。




↓一番前の客車に乗りましたから、いい眺めです。


雲雀丘花屋敷駅を出ると、山本駅、中山観音駅、次が売布神社駅です。

↓今日の「ブラbiko」は、この売布から始まります。

なぜかというと、私は川西に暮らすようになって10年以上になりますが、まだ一度も売布駅で降りたことがないからです。

売布神社にも来たことがありません。

売布駅を出ると、すぐに「清荒神」という道標と売布神社の案内看板が見えました。


坂道を登っていくと大きな鳥居が見えました。


<ご参考>阪急宝塚線路線図

(続く)


摂津鉄道、阪鶴鉄道、箕有鉄道(『かわにし「川西市史第3巻』より)

2018年02月15日 06時42分53秒 | 読書

最近はカテゴリー分けに苦労する。

今日これから書こうとする記事もそうだ。

昨日、夫が夕食不要と言って出かけたので、以前から調べたいと思っていた川西市を走っている鉄道について調べてきた。

図書館でその旨を話すと、司書の方がそれにぴったりの本を探し出してくれた。

ありがたくて手を合わせたくなる。

それは『かわにし「川西市史第3巻」』という本だ。

第3巻ということは、シリーズになっているようだ。

禁貸出しで閲覧のみ許される本だったから、司書の方の座っておられる大きな机で読ませていただいた。

その読んだ記憶を自分の備忘のために書くので間違ったことも書くかもしれませんが、間違いに気づかれた方はご指摘ください。

記事を書くために本の中の地図を私がケイタイで写していても何も言われなかったので、アップさせていただく。

と、前置きが長くなってしまったが、以前から、むかし尼崎や伊丹から川西(駅名は「池田」)まで走っていた軽便鉄道に興味があった。

上の写真は川西村にあった池田停車場の地図である。

なぜ川西村にあったのに池田駅かというと、当時は川西は無名の村だったし、もともとこの軽便鉄道は尼崎や伊丹から池田に物を運ぶためと同時に池田から伊丹、尼崎に物を運ぶための鉄道であったので、そう名付けられたようだ。

当時の池田は能勢の菊炭やその他の産物を出荷するターミナルであったらしいし、賑わっていた池田には尼崎港から陸揚げされた物産が必要ということでもあったのだろう。

伊丹は、当時、綿糸紡績、綿糸織物の産地であったらしく、これらの物産を尼崎港から出荷する必要があったようだ。

現在も川西市にあるJRの駅名が「川西池田駅」であるのは、こういう歴史があったからである。

現在の「川西池田駅」は川西の西の端の宝塚との際にあるが、昔の「池田停車場」は川西の東の端の猪名川西岸にあった(ようだ)。

といっても、そのころは川西市という地名ではなく、宝塚との際の地名は寺畑、のち花屋敷であった。

猪名川の西岸の地名は小戸と小花であった。

現在全部川西市になっているが、この川西市という市は南北に長く東西に狭いので、宝塚寄り、池田寄りといっても、どちらも散歩がてら歩いて行けるくらいの距離しかない。

実際、私や夫の散歩コースは、日によって宝塚、また日によっては池田であったりする。

と余談になってしまったが、

そういうわけで、

猪名川を渡れば池田だから、「池田駅」と名付けても、それほど不都合でもなかったのだろう。

が、その後、どんどん宝塚寄りの場所になったのに、相変わらず「川西池田駅」であるのは違和感がある。

池田駅が西に移っていったのには、川西村の住民(特に駅の所在地の小花地区の住民)の反対があったかららしい。

そのころは蒸気機関車だったので、走ると煤が出た、だったかな?

当時の鉄道は摂津鉄道と言い、私鉄である。

最初は馬車で走っていたらしい。

前身は「川辺郡馬車鉄道」。

現在の川西小学校の東側すれすれを通って呉服(くれは)橋の近くまで走っている。

その後、鉄道は大阪と舞鶴間を走らせるという目的のもと、「阪鶴鉄道」と改名される。

このころ、この阪鶴鉄道は国に撤収されて私鉄から国有になったらしい。

現在のJR福知山線、すなわち宝塚線の前身である。

↓下の写真は上の写真より古い写真だ。

尼崎から伊丹を通り、池田停車場に至る摂津鉄道の計画線路図である。

このころ伊丹から宝塚行きもできたのか、伊丹から二股になり宝塚方面にも鉄路が伸びている。

↓こちらは、その後、京都から山陰に伸びる鉄道も併せて図にした広範囲の地図の写真である。

阪鶴鉄道は、その名前でもわかるように、大阪から舞鶴まで走らせるのが目的だった。

が、京都から山陰に走る鉄道に先手を打たれたので、目的が知り切れトンボになった。

それでも頑張って福知山まで走らせたので、以後「福知山線」と名づけられたとか書いてあったような?

資料が私の手元にありませんので、正確に知りたい方は川西市立図書館5階の資料室でこの本をお借りしてお読みください。

この記事は、おおざっぱなご紹介、あるいは参考ということで・・・。

この阪鶴鉄道は国鉄になったが、その後、川西から梅田まで走らそうという人たちがいて会社を設立したらしい。

その会社の本社は川西の花屋敷駅に作ったらしいが、自分の町に鉄道を走らせたい池田の協力を仰ぐため、本社を池田市に移し、専務取締役に小林一三氏を選んだらしい。

それで小林一三さんの旧居は池田市なのですね。

と、これは私の推測。

この小林一三さんが、宝塚少女歌劇を作ったり、沿線に高級住宅地を売り出したりと、天才的な経営者だったから、現在の阪急電鉄の繁栄はあるのですね。

この箕有鉄道の繁栄に伴って、国鉄になった阪鶴鉄道が衰退したというのは皮肉なことだった。

現在もその歴史の名残りとして、阪急川西能勢口駅周辺が賑わっているのに比して、JR川西池田駅は駅周辺も含めてローカル駅な雰囲気である。

阪鶴鉄道にも池田駅と駅名はあったが、この新しく作られた鉄道の駅は偽池田の川西ではなく、正真正銘池田町にできた。

鉄道の名前は、この鉄道が池田から箕面に支線を走らせることと、有馬まで伸ばすことを目的としていたから、箕面と有馬の名から「箕有(きゆう)鉄道」と名づけられたらしい。

これが、その後の阪神急行鉄道、すなわち阪急電鉄になる。

その後、能勢妙見山まで鉄道を走らせようということになって、その駅は、阪鶴鉄道池田駅から箕有鉄道池田駅を通って能勢に向かう予定だったが、池田の住民が「そんなことをしたら池田がさびれてしまう」と反対をしたため、能勢に行く鉄道は川西小花に新たな駅を設けることにしたらしい。

↓下の写真は、その小花あたりの詳細地図である。


昔の川西は、ほとんどが田んぼだったことが上の地図でわかる。

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・いにしへの鉄路たしかめ今を知る今も走れる阪急電鉄

・阪急は箕有鉄道より生まれ花屋敷駅に本社が

・池田市に本社移転をせし箕有鉄道箕面有馬鉄道

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