神鳴り(アメジストネックレス)

難聴ゆえに家居の好きな主婦です。過去、心臓弁膜症、大腸がんの手術を受けました。趣味は短歌です

眼鏡はしてもしなくても

2018年02月08日 16時58分13秒 | わたしのこと
今日の午後、市役所に用事ができて出向いたのですが、
家を出てから違和感が。

なんだか景色がぼんやりしているなと思うと眼鏡をしないで出てきていたのです。

取りに帰ろうかとも思いましたが、しかし、マスクをしているときって眼鏡をしていると曇るんですね。

ええ、私は、この頃いつもマスクをしています。

風邪が治りきっていないことと、冷たい風が顔に当たると寒いのと両方で。

それで、考えて取りに帰るのをやめました。

が、別の忘れ物をしていることに気づいたので、結局は自宅に舞い戻ったのですが、

せっかく帰ったのだからと、今度は眼鏡をして出ました。

すると、やっぱり眼鏡が曇ってよく見えません。

横断歩道を渡るときなど、車もぼんやりとしか見えないので、これは危ないですね。

が、私は歩きながら考えたのです。

高校時代の親友が失明しかけているけれど、彼女は、こんなものではないのだと。

ぼんやりとしか見えなくても、かなり危険を感じるのですが、親友はもう光を感じるくらいしか見えないのです。

それで市役所に着くまで、彼女の不便の何段階も軽い不便ですが、それを味わいながら歩いて行ったのでした。

私の場合は、耳が聞こえませんから、目と耳の両方の不便を合わせると、
彼女の不便の半分くらいは味わえたかもしれません。

人は、自分が不便にならないと人の不便は味わうことができませんが、

それはそれとして、

今日私が学んだのは、年取って、どこかが不自由になってくると、

たとえば、眼鏡をしているか、していないかということは些末事になってくるということです。

話が飛躍して、また亡くなった母のことになりますが、

活動的な母は、死ぬまでベッドで寝ていることが嫌いで、昨年暮れも絶対ダメという外出を無理やりしただけでなく、亡くなった1月11日も、たぶん主治医の先生からは無理やり外泊許可を取り付けていたと思うのです。

で、何が言いたいかというと、もう死の差し迫っている人は、

ベッドで寝ていようが、寝ていまいが、死期がくれば死ぬということです。

これは、兄もそうでした。

兄は、高校時代のブラスバンド部のOB会で好きなサキソフォンを吹いて、帰宅してシャワーを浴びて、そのまま昇天してしまいました。

兄もお酒の飲みすぎで腎臓を悪くして、透析をしている体だったので、遠からず死ぬ運命だったと思うのです。

が、入院して寝た切りになったりしないで、死ぬまで自分の店の安楽椅子に座り続けて、最後は、このように命がけでサキソフォンを吹いて死んだわけです。

ずっと寝ているのがいい人はそうすればいいですが、兄や母のような、寝ているのは好きでない人は、こうして好きなことをした後で死ぬほうが幸せな死に方ということになるのではないかと。

私は母や兄と違って屋内にいるのが好きな人だから、入院しているのは嫌いじゃありません。

実際、入院していると、病気の辛さを除けると、読書がはかどるから嬉しかったくらいです。^^

眼鏡をするかしないかの話から発展しすぎてしまいましたが、まあ人は好きなようにしていたらいいということを言いたかったのでしょう。(笑)

*

・眼鏡せず外出すればよく見えず眼鏡をしてもマスクをすれば

・死期が来て死ぬときは死ぬ病人は外出してもしなくても死ぬ

・透析をしてゐし兄はサキソフォン吹きてそのまま昇天したり

・酒飲むをやめず腎臓わるくして私の兄はあつけなく死す

・酒のまず長生きするが幸せと限らぬと思(も)ひ兄死にたるや

・兄の子ら兄の死にざま教へとし酒飲みすぎることこそ避けよ

親の有難みは親が死なないと気づけない?

2018年02月08日 06時23分26秒 | 家族
亡くなった母のことばかり書いているが、四十九日まではそうさせていただく。

子は、その親は死なないと、その有難みに気づけないように思う。

かく言う私も、母が生きている間(ほんの1か月前)までは、個性の強かった母の性格のせいもあって、親の有難みがイマイチ身に沁みてなかったと思う。

が、亡くなられると、急に懐かしくなって、過去にしてもらったことが怒涛のように押し寄せてくる。

亡くなった前々日の夜中も、夕方の高速バスに乗ってホテルに夜中の11時過ぎに到着した私を待ちかねていた様子だった母。

いくつになっても、母には娘の私が可愛くてたまらなかったのだ。

こんなに思ってくれる人は親以外にはない。

そのことが強く思われるのは、やはり母は死んでしまったからである。

まだ生きていれば、「あら、まだ起きていたの?」ぐらいの感慨しか湧かないが、これが死んでしまうと、あんなにまでして私を待ちかねていたと、しみじみ思い出されるのが親というものであるらしい。

これは年齢には関係ない親子の情というものなのだろう。

河野裕子さんが、そのお母様の死に目に際して、「あなたは私、私はあなた」というふうな歌を詠まれていたが、まことにそうなのである。

あのわがままだった母、兄嫁にとっては鬼だったかもしれない母であったが、しかし、どんなにわがままであっても、年取ってどんなに見苦しくなっても、子供の私にとっては慈母だったのである。

母が私を大事に思う、そのことが母の慈母たる所以である。

観音様なのである。

私は、そのことに母の生前は気づかなかった。

今も母が生きていたら、私は、そのことに気づかず生きているだろう。

さすがに私も七十も近い年齢になっていたから、真似事の親孝行くらいはさせてもらった。

が、そんなもの、親にしてもらったことから比べると、本当に吹けば飛ぶようなささやかなものであった。

これは、父に対しても同様だ。

男親だった父には女親ほどの世話どりはしてもらっていなかったにも関わらず、父の私への強い愛が思い出されて、私は泣きに泣いた。

河野裕子さんは、お父様が亡くなられたときも、お母様が亡くなられたときと同じように、
「あなたは私、私はあなた」という歌を詠まれたと記憶している。

それは、私も同じであった。

父の感じ方、考え方は、今でも私の体の中にあるし、母も同様である。

祖父母に対しても、そういう気持ちになるときがある。

何かしていて、たとえば祖母を思い出したリする。

ああ、祖母はこんな思いで私達孫に、いろいろしてくれていたんだと気づかされるときがある。

両親や祖父母に対してのこういう気持ちは先祖を敬う気持ちに通じるものだ。

すなわち「ご先祖様は私、私はご先祖様」なのである。

あらためて今朝は、脈々と流れてきたこの血筋に思いをいたしたいと思う。

合掌

*

・亡くなりてどつと押し寄すこの気持ち子は親死にてのちに気づけり

・わたくしはあなたあなたはわたくしと子が気づくころ親はあらざる

・曾祖母は祖母を愛してその祖母は母を愛して母は私を

・わたくしがむすめ愛してゐることも娘は私の死後知るならむ

・永遠につながる愛の連鎖など気づく清らな冬のあかとき