幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

弘化三年一月十五日(西暦1846年2月10日) 江戸大火

2012-12-23 11:34:25 | Weblog

 前に、天保十五年五月十日の大雨のなかで江戸城本丸全焼を書きました。

今回は、侠客「新門辰五郎」と「小金井小次郎」が義兄弟となるきっかけになったと言われる、
弘化三年一月十五日(西暦1846年2月10日)江戸大火の時の天気について調べてみたいと
思います。

弘化三年正月江戸では、「牛蒡を食べると死ぬ」、意味不明なウワサが広がっていました。
そんな中で大火は起きました。

当日の天気を見るまえに、「弘前藩国日記」のダイジェスト版「津軽藩百年天候記録」から
一月九日から一月十六日までの弘前での天気を見てみたいと思います。

1/9 晴 1/10晴 1/11晴 1/12雪
 
1/13雪 1/14晴 1/15雪 1/16雪

となっております。

弘前で雪となっている、1/12、1/13、1/15、1/16の日の天気は西高東低の冬型になっている可能性が高いと思われます。

この時期、低気圧が日本列島の南岸を通過(東風、南風が卓越して太平洋側が雨または雪になることが多い)して発達し、
西高東低の冬型の気圧配置(西風、北風が卓越して日本海側が雪になることが多い)になることが多いですから、
日本海側に位置する弘前が晴れのときに、低気圧が南岸を通過した可能性が高いと思われます。

としますと、低気圧は一月十日(太平洋側を中心に雨)に通過したあと、十一、十二、十三日と冬型の気圧配置が続き、
一月十四日に冬型は緩みます。また、大火当日の十五日と十六日には西高東低の冬型の気圧配置となり、北または西の風が優勢になります

弘化三年一月十四日正午の天気図を見て見ましょう。 


鹿児島県で雨ですが、日本列島は全般的に良い天気です。
しかし、14日の各地の天気の流れをみてみますと、

晴、五ツより曇【太平町】
曇、、夜五、、雨降【江戸】
曇、夕より夜小雨【流山】
午正曇北風、午後雨、40度半、【江戸】
昨夜(14日)雨今朝晴西風【新島】

とあって、正午に鹿児島にあった雨域が、北東に移動して行ったと考えられます。
日記の著者は、皆寝ておりますので、はっきりデータとして出てきませんが、やはり日本列島南岸を
弘化三年一月十四日の夜低気圧は通過して行ったと思われます

ちなみに、江戸は雨でしたので、低気圧は八丈島の北を通過したと考えられます。
(経験則として低気圧が八丈島の南を通過すると、江戸は雪の場合が多くなります。)


上は大火当日の弘化三年一月十五日の天気図です。

十四日の天気図と比較しますと、十四日には太平洋側で天気の悪いところが多かったのですが、十五日は日本海側で天気の悪いところが多くなっております。南東の風から北西の風が卓越して、日本列島は、明らかに西高東低の冬型の気圧配置に支配されつつあることがわかります。
こうなりますと、関東では山越えの、乾燥したからっ風が吹いて、江戸で大火の起きやすい状況になります。

関東地方の当日の風の様子をしらべてみますと、

テンキ、大風【三右衛門日記】【玉村】
朝晴九ツより大西風【田中政之助日記)【太平町】
上天気朝より北大風昼夜吹【二宮尊徳日記】【江戸】
天気昼より大風【二宮尊徳日記】【櫻町】
晴昼より北勝西大風【鷹見泉石日記】【江戸】
晴天、四ツ頃より後大風ふく【大泉院日記】【大間々】
晴、八ツ頃より大西風【吉野家日記】【流山】
曇天北東風【玄蕃日記】【銚子】
朝晴北風、38度半、 午正晴西北風強、48度、 午後西北風烈、 初昏前西北風強、初昏晴西北風烈、45度【霊憲候簿】

となっていまして、銚子の玄蕃日記を除いて、全ての日記が昼頃から北西よりの烈風が吹いた事が書かれています。

この日の大火は、このような恐るべき気象状況下で起こりました。

火事の状況を「月岑日記」により見てみますますと

今日七時頃(午後四時前頃)より本郷丸山、いせ守様上ケ地、御代官筑山茂左衛門様手付中村惣助地内坂本林平宅より出火ニ而、
丸山、本郷、ゆしま、駿河台、神田、本丁、石丁通、京橋迄、八丁堀、霊岸しま、佃島、深川へ飛火大火ニ成、
此方宅、夜九頃類焼
昨夜(十五日)の出火、今日(十六日)昼時頃京橋手前ニ而鎮る、筑地門跡のこる、神田御本社、湯島天満宮、聖堂残る
とあります。

これによりますと、江戸城の北側にあたる本郷丸山(現在の本郷五丁目、東大赤門の付近らしいです。)から出火し、北よりの風に煽られ、火は南東の方へ広がって行き、神田、本町、日本橋、から京橋迄が燃え、飛火して八丁堀、佃島、深川法目の燃え大火となった様子が書かれています。
江戸の町の東半分が灰燼と帰してしまった様な感じです。

日記の著者であります、齋藤月岑の屋敷も時15日の午後12時ころに類焼してしまいました。
下世話に「火事と喧嘩は江戸の花」などと言いますが、弘化三年正月の大火は、度を過ぎた火事だったようです。

この火事で大活躍したのが、佃島の獄中にいた、新門辰五郎と小金井小次郎です。油倉を守ったと言う事ですが、佃島は風向きの真正面にあり、危険極まりない働きです。世間のしがらみは勿論、命も捨てて意地を通す、男伊達の両人ならではです。
日記の著者である齋藤月岑も、消火した翌日の十七日には、屋敷の板囲をして、十九日には焼け残った土蔵から屋根を伸ばして居住空間を半分作りました。拙劣とは言え、一般民の復旧も手早いものがあります

十六日の昼過に消火したとありますが、

朝晴北風強、 午正曇北風強、 初昏曇東風、【霊憲候簿】

とあります様に北大風の収まるのと消火はほぼ一緒だったのではないかと思われます。

 小石川 尋ね来て見よ 火元なる 阿部のあげ地の うらのくず家
 もん計り 残るやしきが 火元にて 名は坂本の 林平といふ

などと謳われ、火元は随分肩身の狭い思いをしたと思いますが、北よりの強風が吹いた時に始まり、強風の吹き終わりと共に鎮火したこの大火は、自然災害と言う要素も大きかったと思われます。


皆さま


火の用心で、良いお年を






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2 コメント

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Unknown (与左衛門)
2013-01-06 16:15:21
幼い時は雪が降っても、風が吹いても喜んだものですが、年をとると段々気候の変化が疎ましくなるもんですね。冬の強風というのが、ただ肌に冷たいというだけではなく、大火を催す致命傷となるのだから、江戸時代もたまった時代じゃないと、改めて思い知りましたよ。「北西からの烈風だったから、江戸の東が燃えた」とは当たり前ですが、気象の知識が入るとやはり歴史は、生生しく面白く感じます。こういうアプローチがあったのかと驚きいるばかりです。月岑という人の日記も手に入れなければ、と思いましたよ。
実は、新門と小金井の義兄弟の契りは、確かな史料からは証明できないのですが「水滸伝」や講談から、まず事実とみて間違いないようです。新門辰五郎は英名の割に史料が少ないのですが、その男伊達が「藤岡屋日記」慶応元年六月に現れます。
長文失礼。記事、大変面白かったです。
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Unknown (いろは丸)
2013-01-07 18:33:52
いつもありがとうございます。
ほかにも、江戸はやはり大火が多かったようです。
斎藤月岑日記は大日本古記録で現在出版継続中だったと思います。自宅が火事になっても日記を書き続けた、著述への執着に感じ入ります。
月岑はほかにも「武江夜話」を書いていて、市井の知識人だったようです。
焼けても焼けてもすぐ立ち直ってくる、江戸の再生力は恐るべきものがあります。
現代人も見習わなくてはと思っています。
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