仙台藩士で、海外に留学し、戊辰戦争後処刑された、玉虫左太夫と言う人がいる、
安政四年に北海道に渡り、「 入北記 」を書き遺している。
この中に、樺太のクシュンコタン詰足軽 内藤道太郎の「北地クシュンコタン(楠渓)寒暖記」
の写しが載っている。
内藤道太郎は安政三年五月二十一日、クシュンコタンに到着し、翌日より日々の天気とともに、
朝、日中、夕方の3回温度計による観測を行っている。
観測の記録は翌安政四年の二月末までであるが、途中シレトコ岬回浦と、シラヌシ出張の時を
除き一日3回の観測を欠かさない。
内藤道太郎と言う人はどのような方だったのだろうか。 足軽と言えば経済的にも豊かとは
言えないだろうが、道太郎は寒暖計を所持していて、自分の意思で気象観測を試みたと思われる。
「 武士道 」を書いた、新渡戸稲造博士の句
見ん人の ためにはあらで 山里の
己が誠に 咲く桜かな
を思い出してしまった。
派手に、刀槍を振り回す武士道よりも、より日常的な 内藤道太郎の武士道を美しいと感じるのは、
私だけでしょうか。
安政四年に北海道に渡り、「 入北記 」を書き遺している。
この中に、樺太のクシュンコタン詰足軽 内藤道太郎の「北地クシュンコタン(楠渓)寒暖記」
の写しが載っている。
内藤道太郎は安政三年五月二十一日、クシュンコタンに到着し、翌日より日々の天気とともに、
朝、日中、夕方の3回温度計による観測を行っている。
観測の記録は翌安政四年の二月末までであるが、途中シレトコ岬回浦と、シラヌシ出張の時を
除き一日3回の観測を欠かさない。
内藤道太郎と言う人はどのような方だったのだろうか。 足軽と言えば経済的にも豊かとは
言えないだろうが、道太郎は寒暖計を所持していて、自分の意思で気象観測を試みたと思われる。
「 武士道 」を書いた、新渡戸稲造博士の句
見ん人の ためにはあらで 山里の
己が誠に 咲く桜かな
を思い出してしまった。
派手に、刀槍を振り回す武士道よりも、より日常的な 内藤道太郎の武士道を美しいと感じるのは、
私だけでしょうか。
秀逸な人物が時代に押しつぶされてゆくのも、歴史の一面かと思います。
小栗上野介なども惜しい人物だなあと思います。
宮城県も大分暑くなって参りました。都会の暑さは格別だと聞いております。
ご自愛ください。
玉虫左太夫という人は北海道にも行ってたんですか。
『官武通記』の作者としてしか知りませんでした。