永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(142)

2008年08月27日 | Weblog
8/27  

【関屋(せきや】の巻  その(3)

源氏は、
「すこし心おきて年頃は思しけれど、色にも出だし給はず。昔のやうにこそあらねど、なほ親しき家人の内には数へ給ひけり」
――源氏は今まで少し不満に思っておられましたが、顔色にもお出しになりませんでした。昔ほどではありませんが、親しいお出入りの一人には数えておいででした――

 常陸の介の子息の紀伊守(きのかみ)は、今は河内守(かわちのかみ)になっております。
その弟の右近の将監(うこんのぞう)という人は、あの折りに、源氏の身内のように思われて免官になり、源氏について須磨に下りましたのを、源氏はお心に留められて、この度はお引き立てになりましたのを、世におもねった人々は、自分たちの行いを後悔することが多いのでした。

 源氏は、先の右衛門の佐をお召しになって、空蝉へお文をお遣わしになります。
佐は、
「今は思し忘れぬべきことを、心長くもおはするかな、と思ひ居たり」
――今はもう姉をお忘れになられた筈と思っていましたが、気を長く覚えておいでのことだ、と思うのでした――

お文には、
あの日は、尽きぬご縁を感じました。あなたはどうお思いでしたか。関守のような顔をして、あなたの傍に居る常陸介が、実に羨ましくも癪にさわりましたよ。ご無沙汰は
長いものの、あなたをいつも思っておりましたので、お逢いした今は、やはり思いが募ります。浮気がましいとお思いですか。

佐は、空蝉に申します。
 お返事はなさいませ。女の身としては、仰せに従ったとしても、非難されませんでしょう。

◆写真:関屋の風景

ではまた。

源氏物語を読んできて(141)

2008年08月26日 | Weblog
8/26  

【関屋(せきや)】の巻  その(2)

 時は九月末の頃合いでしたので、紅葉の色も濃く薄くが混じり合い、霜枯れの草のむらむらと見え渡るところに、関屋からさっと現れた源氏のご一行の旅姿は、
「いろいろの襖(あを)のつきづきしき縫物、括り染めのさまも、さるかたにをかしう見ゆ」
――色さまざまの狩襖(かりあを=表は布で、裏は絹の狩衣)に、調和良くほどこした刺繍や、絞り染めの様子も、旅支度が趣深く眺められます――

 源氏は御簾の中から、常陸の介一行の中に、昔の小君で今は右衛門の佐(えもんのすけ)を見つけられ、呼び寄せられて、
「きょうの御関迎へは、え思ひ捨て給はじ、など宣ふ。」
――今日こうして逢坂の関まで迎えにきた私の心を、あの人もおろそかには、おもわれますまい、と仰せになります――

 源氏のほんの一通りの言づてですが、空蝉も昔を思い出して感慨深く、
「行くと来とせきとめがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ」
――行きも帰りも止めどもなく湧く私の涙を、こんこんと絶えぬこの関の清水とあなたはご覧になるでしょう――

 これは、独り言なので、源氏は私の心の底などとてもご存知にはなるまいと思えば、まことにはかなく思われるのでした。

「石山より出でて給ふ御迎へに、右衛門の佐参れり……」
――源氏が石山寺からお帰りになる日のお迎えに、右衛門の佐が京から参上し、(先日は石山へお供も申さず、常陸の介と一緒に上洛してしまったお詫びなど申し上げます)――

 この右衛門の佐という人は、空蝉の弟(小君)であった頃は、源氏からも目を掛けられて、傍近くで可愛がられ、五位に叙せられるまで、何かと源氏に引き立てられておりましたのに、思いがけぬあの源氏の騒ぎが起こった頃には、世の思惑を気にして、常陸の介と一緒に下ってしまっていたのでした。

ではまた。



源氏物語を読んできて(源氏物語絵巻・復元模写・関屋)

2008年08月26日 | Weblog
復元模写・関屋、加藤純子制作 

 現存する絵巻の中で、唯一の風景画。光源氏と空蝉の牛車行列が、雄大な山河を背景に細やかに描き出されていた。剥落が特に激しく復元は困難を極めた。僅かにのこる紅葉の痕跡を顕微鏡で調べると、紅葉の微妙な彩りの変化を表現するために、平安の絵師が驚くべき技を駆使していたことが判明した。

左の女車の辺りが常陸の介一行。右が源氏の一行。

◆写真と参考 NHK出版より


源氏物語を読んできて(140)

2008年08月25日 | Weblog
8/25  

【関屋(せきや)】の巻  その(1)

 源氏(内大臣)  29歳9月
 空蝉       35歳(源氏が17歳の時、一度だけ逢瀬を持った)
 
 伊豫の介という人は、故桐壺院がお隠れになった翌年、常陸の介となって、任地に下りますときに、かの空蝉(後妻)も伴われたのでした。
 
 空蝉は、源氏が須磨に退居なさったことを、遠くにあってお聞きになりましたが、お見舞い申し上げる便宜もなくて、年月を重ねておりました。
 
 源氏が都にお帰りになった次の年の秋に、この常陸の介は、任期が終わり都に上ってきました。

 「関入る日しも、この殿、石山に御願はたしに詣で給ひけり」
――常陸の介一行が、逢坂の関を越す丁度その日、源氏は石山寺の観世音に、ご祈願成就の御礼に参詣なさるところでした。――

 あの頃、紀伊の守(きのかみ)であった息子など、京から迎えに来た人々が、源氏の殿がこれこれの物詣でに来られますと、常陸の介にお知らせになったので、道中が混み合うことであろうと、暁方から出立して急ぎますが、女車が多くゆらりゆらりと練って来ますうちに、日が高くなってしまいました。

「打出の浜来る程に、殿は粟田山越え給ひぬとて、御前の人々、道もさりあへず来こみぬれば、関山に皆下り居て、ここかしこの杉の下に車どもかきおろし、木隠れに居かしこまりて過ぐし奉る。」
――打出の浜(琵琶湖のほとりの、大津の近くの浜)に差しかかったところ、源氏の一行は粟田山(京の東山連山のひとつ)をお超えになりましたとかで、源氏方の前駆(さきばらい)の人々が大勢なだれ込んで参りまして、道も避けがたいと思い、常陸の介の一行は、関山で皆下りて、そこかしこの杉の下に車をかき入れ、牛をはずし、轅(ながえ)を下ろして、大臣の御行列をやり過ごそうと、木陰に畏まってお待ち申し上げます――

 常陸の介の一行には、女車が十ほど連なっていて、袖口や襲(かさね)の色などが下簾の下からこぼれて見えますのが、田舎びておらず趣深いのを、源氏ははっと御目を留められたのでした。

◆写真:石山寺の紫式部源氏の間

ではまた。



源氏物語を読んできて(都の郊外・石山寺)

2008年08月25日 | Weblog
石山寺

 石山寺(いしやまでら)は、滋賀県大津市石山寺1丁目にある東寺真言宗の寺院。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は良弁(ろうべん)である。石山寺は、京都の清水寺や奈良県の長谷寺と並ぶ、日本でも有数の観音霊場で、西国三十三箇所観音霊場第13番札所となっている。

 琵琶湖の南端近くに位置し、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川の右岸にある。本堂は国指定天然記念物の珪灰石(「石山寺硅灰石」)という巨大な岩盤の上に建ち、これが寺名の由来ともなっている(石山寺珪灰石は日本の地質百選に選定)。

 この寺は、多くの文学作品に登場することで知られている。『枕草子』、『蜻蛉日記』、『更級日記』など。紫式部が『源氏物語』の着想を得たのも石山寺とされている。伝承では、寛弘元年(1004年)、紫式部が当寺に参篭した際、八月十五夜の名月の晩に、「須磨」「明石」の巻の発想を得たとされ、石山寺本堂には「紫式部の間」が造られている。

◆石山寺

源氏物語を読んできて(都の郊外・逢坂の関)

2008年08月25日 | Weblog
逢坂の関
 
 京阪電鉄大谷駅の東約100m、国道1号沿いに「逢坂山関跡」の記念碑が立っています。逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝でした。
 
 古くから貴族や武将をはじめ、文人墨客(ぶんじんぼっきゃく)がこの道を通過し、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています。 実際に関所があったのは、記念碑から少し大津寄りで関寺の付近であったのではないかといわれています

 「逢坂山」の地名は、その名に「逢ふ」を響かせて数々の歌に詠まれ、人々の想像力をかき立てます。また「追分」の地名は、「追ひ・分く」という峠の意味。東海道と支流街道の分岐点として交通の要衝であったことがうかがえます。
 
 逢坂越えの追分あたりは、いまでこそ国道一号線を車で通過すれば、あっという間。しかし江戸時代には、両脇に山が迫る道幅の狭い街道をはさんで両側にぎっしりと家々が建ち並び、谷間を埋めていました。街道沿いには茶店や土産物を売る店が並び、旅人や牛馬の往来がひっきりなし。現在からは想像もできない賑わいぶりで、東海道随一であったということです。

百人一首でも二つの歌で詠まれています。

 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関 蝉丸(第十番)

 夜をこめて 鳥の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ 清少納言(第六十二番)

◆写真は現在も残る逢坂の関所跡