永子の窓

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枕草子を読んできて(110)

2019年02月22日 | 枕草子を読んできて
九七  無名といふ琵琶 (110) 2019.2.22

「無名といふ琵琶の御琴を、うへの持てわたらせたまへるを、見などして、かき鳴らしなどす」と言へば、弾くにはあらず、緒を手まさぐりにして、「これが名な。いかにとかや」など聞こえさするに、「ただいとはかなく、名もなし」とのたまはせたるは、なほいとめでたくこそおぼえしか。淑景舎などわたりたまひて、御物語のついでに、「まろがもとにいとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿の得させたまへりし」とのたまふを、僧都の君の「それは隆円に給うべ。おのれがもとにめでたき琴侍り。それにかへさせたまへ」と申したまふを聞きも入れたまはで、なほことごとをのたまふに、いらへさせたてまつらむとあまたたび聞こえたまふに、なほ物ものたまはねば、宮の御前の「いなかへじとおぼいたるものを」とのたまはせけるが、いみじうをかしきことぞ限りなき。
この御笛の名を、僧都の君もえ知りたまはざりければ、ただうらめしとぞおぼしたンめる。これは職の御曹司におはしましし時の事なり。うへの御前にいなかへじといふ御笛の候ふなり。
◆◆ある人が「無名という琵琶の御琴を、主上がお持ちになってこちらにおいであそばしているのを、女房が見るなどして、掻き鳴らしなどする」と言うので、私は弾くのではなくて、緒を手でまさぐって、「これの名前ですよ。何と言いましたかしら」など
申し上げると、中宮様が、「ただもう取るに足りなくて、名もない」と仰せあそばしているのは、たいへんすばらしく感じられた。御妹様の淑景舎がこちらにお出でになって、中宮様とお話をなさるついでに、淑景舎が、「私の手許に、とても風情のある笙の笛があります。亡くなった父殿がくださったものです」とおっしゃると、僧都の君が「それは隆円にくれてやってくださいまし。私の手許にすばらしい琴がございます。それとお取替えください」と申し上げなさるのを、お耳におとめにならず、なおも他のことをおっしゃるので、お返事をおさせあそぼそうと何度も申し上げなさるのに、何もおっしゃらないので、中宮様が「『いなかへじ―いいえ、取り換えません―』と思っておいでなのに」と仰せあそばしたのだったが、非常に面白いことはこの上もないことだった。この「いなかへじ(否替えじ)」という御笛の名前を、僧都の君も知り得ないでいらっしゃたのだから、ひたすらうらめしいと思っておいでのようだ。これは職の御曹司に中宮様がおいであそばした時のことである。主上の御前に「いなかへじ」という御笛があるのである。


■無名といふ琵琶の御琴=この琵琶のことは上東門院の所有になってのち焼失したと伝える。

■淑景舎(しげいしゃ)=中宮定子の妹原子。東宮妃として淑景舎の女御と称した。

■故殿=中宮・淑景舎・隆円の父である道隆。長徳元年(995)4月10日没。

■僧都の君=道隆の四男隆円。中宮と同腹。正暦5年(994)十五歳で権少僧都。



 御前に候ふ物どもは、みな、琴、笛も、めづらしき名つきてこそあれ。琵琶は玄上、牧馬、出手、渭橋、無名など、また、和琴なども、朽目、塩竈、具などぞ聞こゆる。水籠、小水籠、宇多の法師、釘打、葉二つ、何くれと、おほく聞こえしかど、忘れにけり。「宜陽殿一の棚に」といふ言ぐさは、頭中将こそしたまひしか。
◆◆御前に在る物は、みな、琴、笛も、珍しい名がついているのだ。琵琶は玄上(げんじょう)、牧馬(ぼくば)、出手(ゐで)、渭橋(ゐきょう)、無名(むみょう)など、また、和琴(わごん=日本の古来ある琴で6弦)なども、朽目(くちめ)、塩竈(しほがま)、具(?)などともうしあげる。水籠(すいろう)、小水籠(こすいろう)は両方とも横笛の名器、宇多の法師(=和琴)、釘打(くぎうち)、葉二つ(はふたつ)の二つは笛の名器、そのほか何やかやと、たくさん耳にしたけれど、忘れてしまった。「宜陽殿一の棚に」という口ぐせは頭中将がなさったことだった。◆◆

■「宜陽殿(ぎようでん)一の棚に」=紫宸殿の東、その母屋に楽器、書籍など累代の御物を納めた。

*写真は和琴


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