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永子の窓

趣味の世界

源氏物語を読んできて(250)

2008年12月13日 | Weblog
12/13   250回

【初音(はつね)】の巻】  その(6)

 しかしながら、末摘花も空蝉も、つれない源氏のお心をどうして今さらお咎めできましょうか。辛い憂き世に漂わずに、暮らしの心細さなどないことの安心さに、この上もなく有り難く思うのでした。
空蝉の尼君は仏の道に励み、末摘花は仮名文字の草子の学問に心を入れて暮らせるという、ご当人方の望みを叶えてのお住いを、源氏はさせておいでなのでした。

 源氏は、騒がしい新年の日々をお過ごしになってから、こちらの二条院の東の院にお出でになります。

 末摘花の御方には、身分が身分ゆえ、投げやりなお扱いはお気の毒と思い、人前ではたいそう丁寧に取り扱って差し上げますが、この頃の末摘花の様子をご覧になって、

「いにしへ盛りと見えし御若髪も、年ごろ衰へゆき、まして瀧の淀みはづかしげなる御かたはらめなどを、いとほしと思せば、まほにも向ひ給はず。柳は、げにこそすさまじかりけれと見ゆるも、着なし給へる人柄なるべし。」
――昔はご立派だった若々しい髪も、すっかりこの頃は衰えてきて、滝の水も負けそうな白髪混じりの横顔が、源氏はお気の毒なので、まともにも向かい合われません。源氏から贈られた柳の御衣装は、やはり思ってのとおり不似合いでしたが、それも結局は着る人の人柄によるのであろう。――

 光沢もない黒い掻練のかさかさに張った一襲に、中着もなく、例の柳の袿をじかに着ていて寒そうに、いかにもみずぼらしい。

「かさねの袿などは、いかにしなしたるにかあらむ。御鼻の色ばかり、霞にも紛るまじくはなやかなるに、御心にもあらずうち歎かれ給ひて、ことさら御几帳引き繕ひ隔て給ふ。」
――何枚も重ねて着る袿などは、どうなさったのであろう。赤い鼻の色ばかりは霞に紛れようもなくはっきりしていますので、源氏は思わず溜息をおつきになり、わざと几帳を引きよせて隔てをお作りになります。――

 末摘花は、このようなことにもさして恥ずかしがりもせず、ただただ源氏を頼みに思われているご様子で、ご容貌だけでなく生活面でも人並みでないご境遇に、せめて自分だけでも面倒をみてやらねば、と源氏はお思いになるのでした。

 源氏は向かいの院の御蔵を開けさせて、絹や綾織物などお渡しになります。

源氏は、独り言のように、(歌)
「ふるさとの春の木末にたづね来て世のつねならぬ花をみるかな」
――昔馴染みの春の木末を訪ね来て、世にまたとない花(赤鼻)を見ることよ――

末摘花はお気づきにならなかったようです。

ではまた。
 

源氏物語を読んできて(織物の歴史)

2008年12月13日 | Weblog
◆織物工房 

 平安時代には、官営の織物工房がありました。
西陣織の源流は、遠く古墳時代にまで求められます。5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が山城の国、つまり今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたのです。

 飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。いわば国営の織物業が営まれていたわけです。織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。

 平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰えました。律令政治のタガがゆるみ始め、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになったのです。彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。
 
 室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。

◆参考:風俗博物館

源氏物語を読んできて(織物・西陣)

2008年12月13日 | Weblog
◆西陣の由来

 ところが、室町時代の中頃、京都の街を舞台に東軍と西軍が争う応仁の乱が起こります。乱は11年間も続いたため、多くの職工たちが戦火を逃れて和泉の堺などに移り住み、大舎人町の織物業は壊滅状態となりました。

 しかし、戦乱が治まると彼らは再び京都に戻り、もとの場所にほど近い白雲村(現在の上京区新町今出川上ル付近)や、戦乱時に西軍の本陣であった大宮今出川付近で織物業を再開しました。西陣織という名前は、西軍の本陣跡、つまり西陣という地名がその由来です。
 
 大宮あたりの織物業者たちは大舎人座を復活させ、室町時代の末ごろには、この大舎人座が伝統ある京都の絹織物業を代表するものと認められるようになりました。

◆参考と写真:「応仁の乱」西陣の歴史より