『愛の続き』 イアン・マキューアン著
<iframe src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=htsmknm-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4105900218&fc1=000000&IS2=1<1=_blank&lc1=0000FF&bc1=000000&bg1=FFFFFF&f=ifr" style="width:120px;height:240px;" scrolling="no" marginwidth="0" marginheight="0" frameborder="0"></iframe>
科学ジャーナリストのジョーは恋人のクラリッサとのピクニック中に気球の事故に遭遇、周囲に居合わせた人々と乗員を助けようとしてひとりが亡くなってしまう。衝撃的な事故のその夜、自宅に電話がかかってきて「愛している」とジョーに告げる。相手は事故のときいっしょに気球につかまっていたパリーという若い男だった。
映画『つぐない』の原作者イアン・マキューアンの旧作。原作の『贖罪』も読もうかと思ったんだけど映画がイマイチだったんで(爆)、とりあえず古いのからいってみよっかなと。読んでから気づいたけど、これも映画化されてますね既に(邦題『Jの悲劇』)。今度観てみたろ。
いやこれコワイわ。いやおもろいわ。素晴しー。これまでに読んだ中では最高のサスペンス小説です。
いちばんおもしろいのは主要な登場人物がみんなインテリってとこかな。インテリだからおつむはお利口なわけ。少なくともそれぞれ自分ではそう思ってる。けどお利口なだけじゃどーにもならないものがある。それが「愛」ってわけだ。
たとえばパリーは学もあればカネもある。若さもあるし容貌にも恵まれてる。でもどんなにジョーに焦がれても彼を振り向かせることは出来ない。ジョーが男だからという問題ではない。ジョーにクラリッサがいるからでもない。他人の心をコントロールする能力は人間にはないからだ。ましてそれが愛ならなおさらである。
でもだからこそ報われぬ愛に煩悶するパリーが哀れに思える。確かに狂ったストーカーに化していく彼の行動は恐ろしいが、彼もまた一種の被害者なのだ。
そして読めば読むほど、愛それそのものが怖くなる。愛は盲目というけれど、パリーの愛情が病的であることは事実だとしても、愛に溺れる者などみんな多かれ少なかれどっか狂ってる。狂えばこそ人は愛に溺れられる。愛において正常/異常の境目なんか存在しないのだ。
そういう意味では、報われずとも一生やむことのない愛に浸って生きるパリーは幸せなのかもしれない。んーどーかなー?わからない。彼ほど深く誰かを愛するなんて経験、したことないしなー。もうこの歳になったらしてみたいとも思わんし(爆)。
パリーが患ってるというド・クレランボー症候群は実在の精神病だそーで(エロトマニア:Wikipedia)、症例をみてるともしかすると病的なストーカーの大半がこれに相当するかも、とゆー気がしてくる。
なんにでも病名をつけて病気扱いするのはどーか?とも思うけど、暴力に訴えちゃうような愛はみんな病気にしちゃった方が、あるいは世の中平和なのかもしれない。
けど誰でもかかる可能性のある病気だと思うとそーとばかりもいってられない。
愛って、コワイね。こわー。
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科学ジャーナリストのジョーは恋人のクラリッサとのピクニック中に気球の事故に遭遇、周囲に居合わせた人々と乗員を助けようとしてひとりが亡くなってしまう。衝撃的な事故のその夜、自宅に電話がかかってきて「愛している」とジョーに告げる。相手は事故のときいっしょに気球につかまっていたパリーという若い男だった。
映画『つぐない』の原作者イアン・マキューアンの旧作。原作の『贖罪』も読もうかと思ったんだけど映画がイマイチだったんで(爆)、とりあえず古いのからいってみよっかなと。読んでから気づいたけど、これも映画化されてますね既に(邦題『Jの悲劇』)。今度観てみたろ。
いやこれコワイわ。いやおもろいわ。素晴しー。これまでに読んだ中では最高のサスペンス小説です。
いちばんおもしろいのは主要な登場人物がみんなインテリってとこかな。インテリだからおつむはお利口なわけ。少なくともそれぞれ自分ではそう思ってる。けどお利口なだけじゃどーにもならないものがある。それが「愛」ってわけだ。
たとえばパリーは学もあればカネもある。若さもあるし容貌にも恵まれてる。でもどんなにジョーに焦がれても彼を振り向かせることは出来ない。ジョーが男だからという問題ではない。ジョーにクラリッサがいるからでもない。他人の心をコントロールする能力は人間にはないからだ。ましてそれが愛ならなおさらである。
でもだからこそ報われぬ愛に煩悶するパリーが哀れに思える。確かに狂ったストーカーに化していく彼の行動は恐ろしいが、彼もまた一種の被害者なのだ。
そして読めば読むほど、愛それそのものが怖くなる。愛は盲目というけれど、パリーの愛情が病的であることは事実だとしても、愛に溺れる者などみんな多かれ少なかれどっか狂ってる。狂えばこそ人は愛に溺れられる。愛において正常/異常の境目なんか存在しないのだ。
そういう意味では、報われずとも一生やむことのない愛に浸って生きるパリーは幸せなのかもしれない。んーどーかなー?わからない。彼ほど深く誰かを愛するなんて経験、したことないしなー。もうこの歳になったらしてみたいとも思わんし(爆)。
パリーが患ってるというド・クレランボー症候群は実在の精神病だそーで(エロトマニア:Wikipedia)、症例をみてるともしかすると病的なストーカーの大半がこれに相当するかも、とゆー気がしてくる。
なんにでも病名をつけて病気扱いするのはどーか?とも思うけど、暴力に訴えちゃうような愛はみんな病気にしちゃった方が、あるいは世の中平和なのかもしれない。
けど誰でもかかる可能性のある病気だと思うとそーとばかりもいってられない。
愛って、コワイね。こわー。