ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

伊藤若冲の生涯 (2)

2013-10-04 | Weblog
一七三八年 元文三年 戊午 二十三歳
○九月二九日、父の三代源左衛門、法名浄空宗清居士没、享年四十二歳。若冲は若干二十三歳にして枡源の四代当主、伊藤源左衛門を継ぐ。

一七四四年 寛保四年 甲子 二十九歳
○売茶翁はこの年から宝暦四年までの十年間あまり、相国寺林光院に寄寓。同年九月に売茶翁は大典とともに、儒学者の宇野明霞士新を見舞った。士新の詩の師は売茶翁の法弟の大潮。また大典は士新の弟子であり、大潮を文学の師とした。
○若冲は二十歳代後半から師匠について画を学びはじめたという説がある。師は町狩野の絵師大岡春卜(一六八〇~一七六三)で、春教の画名を与えられたと伝えるが、春教落款の画はいまだに発見されていない。春卜は大坂住まいで、作画教本を何冊も出版している。
○大坂の木村蒹霞堂(一七三六~一八〇二)『諸国庶物志』では、若冲は京狩野の鶴沢探山の門人である青木左衛門言明に学んだとする。蒹霞堂は幼いころに大岡春卜に画を習った。その彼がいうからには、若冲が春卜についたとは考えにくい。青木左衛門言明を若冲の師とするのは正しいかもしれない。
○二月二一日 延享に改元。

一七四六年 延享三年 丙寅 三十一歳
○大典は独峯和尚の後をつぎ、慈雲庵住持になった。

一七四七年 延享四年 丁卯 三十二歳
○夏 大典が糺森で売茶翁高遊外の茶器注子に『老子』の言葉「若冲」を記した。「去濁抱清 縦其灑落 大盈若冲 君子所酌」。『老子』第四十五章の原文は「大成若缺 其用不弊  大盈若冲 其用不窮 大直若屈 大功若拙 大辦若訥…」。大盈若冲其用不窮は「本当に満ち充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」
○売茶翁は市井で庶民と交わる清貧の哲学者で宗教家、そして文人学者である。荷茶屋はいやしい職業とされたが売茶翁は「茶銭は黄金百鎰より半文銭迄はくれ次第。ただ飲みも勝手。ただよりは負け申さず」。黄金百鎰(いつ)は二千両、一文は寛永通宝一枚でいちばん安い貨幣なので両替もできない最低単位。現代の一円玉と同様。
○若冲の署名も捺印もなく「景和」のみの款記は『雪中雄鶏図』(細見美術館蔵)、『葡萄図』(プライスコレクション)。若冲款記のない景和だけの名は、延享か寛延年間の作ともされる。
○若冲の初期作品である『松樹群鶴図』には「平安藤汝鈞製」と記し、印章は「汝鈞字景和」と「若中」。中であって冲でも沖でもない。三十六歳までのある時期、「若中」という誤った印を使用した。老子「若冲」の意味と字を勘違いしたのであろう。「充実しているものは、一見『中』が空っぽ(冲)のように(若)見える」。大典が記した売茶翁の注子の大盈若冲を見、翁から字の意味を教えられたとわたしは考えている。「中」字の作品を見た翁はきっと笑ったであろうが、若冲命名者は売茶翁であろう。その時期は若冲三十二歳夏から三十六歳冬までの間である。

一七五一年 寛延四年 辛未 三十六歳 
○九月二九日 伊藤家の菩提寺である宝蔵寺に父母の墓を建てた。墓石の施主名には「ますや源左衛門」と自らを刻す。母親は健在なのでこれは生前墓。宝蔵寺は浄土宗誓願寺派で、裏寺通蛸薬師上ル。後に建てた弟たちの墓とともにいまも現存している。
○この年ころから大典禅師と交わったとされる。若冲と売茶翁の出会いはそれより以前のはずである。翁には京のだれでもが、客として出会うことができた。もし若冲と大典が、売茶翁を介さずに面識がもしあったとしたら、考えられるひとつは近江ではないかと思う。大典の今堀家は近江国伊庭郷の出であり、伊藤家も若冲の母の実家武藤家も近江の出身。ただ近江とひとくちに言っても広い。史料も伝承もないが。
○一〇月二七日 宝暦に改元。

一七五二年 宝暦二年 壬申 三十七歳
○一月 『松樹番鶏図』に若冲居士を記す。若冲名と年記がはじめて確認される作品である。款記に<壬申春正月且呵凍筆於平安独楽窩/若冲居士>。独り楽しむ窩(か)、すなわち穴倉は土蔵であろうか。意訳すると「宝暦二年正月の明け方、京の寒いアトリエ独楽窩において、凍った筆を息で吹き温めながら記す」
○この年前後の若冲款記の作品は最初期の『日出鳳凰図』(ボストン美術館)、『牡丹百合図』(慈照寺)。『糸瓜群虫図』、『梅花小禽図』、『風竹図』<心遠館若冲製>(細見)。『梅鷹図』(大阪美)。『松鷹図』<心遠館若冲製>(プライス)。『葡萄図』。『隠元豆玉葱黍図』『鸚鵡図』(草堂寺)。『白鶴図』、『花卉双鶏図』(各個人蔵)など。錦高倉以外に鴨川べりにあったもうひとつの画室「心遠館」は、三十歳代後半から構えたようだ。ところで草堂寺は南紀白浜の東福寺末寺だが、初期作品が二幅も現存しているのは不思議に思う。若冲が南紀まで旅したという伝承もない。
<2013年10月4日>
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