ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

伊藤若冲の生涯 (3)

2013-10-09 | Weblog
一七五五年 宝暦五年 乙亥 四十歳
○九月四日 高齢と健康を理由に八十一歳の高遊外は売茶を廃した。この秋より一年余の間、腰痛に悩む。
○若冲は四十歳を期に、伊藤源左衛門の代々の主人名と枡屋家業を次弟の宗巌(そうごん)白歳に譲る。若冲は茂右衛門と改名し、画事に専念する。伊藤家は当時、錦高倉に三軒の家屋敷を所有していたようだが、若冲は内一軒を住居兼アトリエにし、鴨川西岸の画室「心遠館」と併用した。
○若冲のそれまでの住居、枡屋の本拠は錦小路高倉東入ル東南角の中魚屋町。彼は南に隣接する帯屋町のもう一軒の伊藤家屋敷に移ったようだ。三軒の内、あと一軒は高倉通錦上ル北東角の中魚屋町で、桝屋本拠とは向かい合わせに位置すると考えられる。中魚屋町は高倉通から東一帯で、錦小路に各店が南北で面する両側町である。
○若冲は後に帯屋町年寄の重責を担う。帯屋町の彼の住居は、高倉通錦下ルだが高倉通四条上ルも同じ表示である。
○若冲の次弟は法名宗巌明空で号は白歳。末弟三男は宗寂。五代源左衛門を継いだ次弟白歳は、俳句や描画がすきな人物であった。兄を師として描いた白歳画『雪中群鶏図屏風』『鶏図』『田楽図』などが残っている。当然ながら画才は兄には及ばないが、白歳画は味わい深い。俳句は「こんな布袋/あらばさがさむ己午市」(若冲画『布袋図』の白歳賛)、「つらいつらい/花も紅葉も/なきそよき」(白歳墓石刻)。ちなみに白歳の名は野菜の白菜にちなむのだろうが、百から一を減じると九九で「白」。白歳は九十九歳で読み「つくも」である。若冲の作とされる『付喪神図』があるが、「つくもがみ」は長年使い古した器物に宿る神。白歳のひょうきんで楽しい性格が伝わって来る気がする。
○この年、数多くの作品を制作している。『旭日鳳凰図』<宝暦五年乙亥首夏平安若冲居士藤汝鈞造>(宮内庁蔵)、『虎図』(プライスコレクション)、『月梅図』(バーク)
○また前後年の若冲款記作は『雪梅雄鶏図』(両足院)、『雪芦鴛鴦図』『群鶴図』(プライス)、『月夜白梅図』(個人蔵)。また「心遠館」が記されている作品は『旭日雄鶏図』(プライス)、『燕子花小禽図』『松に鸚鵡図』『竹鶴図屏風』(各個人蔵)

一七五七年 宝暦七年 丁丑 四十二歳
○『動植綵絵』制作にこの年から着手か。『芍薬群蝶図』<平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室>が第一作とみられる。
○若冲画『売茶翁像』に高遊外が賛をした。印章は「若冲」ではなくデタラメな「若中」であり、「中」字使用の二例目。当時の売茶翁は高齢と腰痛のため書に自信がなかった。誤字脱字を起こしては申し訳ないと、依頼主と若冲に賛を辞退していたのだが、若冲はあえて誤印を捺すことによって、自分の印章もそうだが、失敗を恐れないようにと売茶翁をユーモアで励ましたのではないか。同じ姿のよく似た売茶翁像が現存しているが、賛に失敗しても代替の画があると、何枚も翁に見せたのでなかろうか。老子を誤解して作ってしまった「若中」印をあえて再度、使用した若冲の翁へのこころ配りを感じるのはわたしだけか。この折に売茶翁が依頼主に送った断りたいという手紙に「拙筆儀ニ候ヘ者、書損或落字抔、有之候故、書キ直シ之不成物ハ、一向書不申候」。その後、高遊外が賛を無事に終えて依頼主に送った手紙には、つぎのように記されている。「痛い腰をかがめて書きましたので、格好のよい字とはなりませんでした。字を抜かすことはありませんでしたが、もともとうまくない字です。今回はいっそううまくありませんでした…」。宝暦五年以降、売茶翁は腰痛に悩んでいた。
○この年前後の作品に『枯木鷲猿図』『雪中遊禽図』(各個人蔵)

一七五八年 宝暦八年 戊寅 四十三歳
○春 『動植綵絵』全三十幅の内、最も早い年記を記した『梅花小禽図』<宝暦戊寅春居士若冲製>。これが前年の『芍薬群蝶図』に続くシリーズ二作目か。
○九月 黄檗僧で弱冠二十歳の聞中(もんちゅう)浄復(一七三九~一八二九)が大典に師事。彼は明和九年に本山黄檗山萬福寺に呼び返されるまで、十四年間も相国寺にとどまる。芦雁の画を好んで描いたが、画の師は若冲である。

一七五九年 宝暦九年 己卯 四十四歳
○二月一二日 大典は師の三回忌を終え、本山に退隠届を出し慈雲庵を出て郊外に閑居する。この突然の退隠には相国寺も驚き、「本山に於いても先例これ無き事」と記している。相国寺に戻るのは十三年後。この年、大典四十一歳。彼は鷹峰、山端、華頂山麓などと住まいを転々とし、詩作、文筆、著作に専念した。
○一〇月 金閣寺で知られる鹿苑寺大書院五室の障壁画が完成<宝暦己卯孟冬居士若冲造>。大典に学問文学を師事した二十六歳の龍門承猷が鹿苑寺の住持になったのが、若冲制作につながったと考えられる。大書院は延宝年間(一六七三~一六八一)の建造だが、長年にわたって襖は無地のままだった。
○この年に制作された『動植綵絵』五幅は『雪中鴛鴦図』『秋塘群雀図』『向日葵雄鶏図』『紫陽花双鶏図』『大鶏雌雄図』。いずれにも<宝暦己卯>の年記。
<2013年10月9日>
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