ふろむ播州山麓

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若冲 五百羅漢 №22 <若冲連載42> 

2009-09-19 | Weblog
『京都府寺誌稿』後編

 深草石峰寺の拙門和尚によると、後山の若冲石像の配置は世尊在世中の逸事を形取り、第一画題は世尊の誕生。第二は世尊が王家嫡男である系統を捨てて入山。第三画題は、雪山(せっせん)での六年間におよぶ苦行を終え、山を降りての出山外道教化。第四は華厳教悦法。第五は般若浄土。第六は霊山會上。第七は祇園精舎二十五菩薩雍護。第八は法華教授。第九が涅槃。第十は[塔]所に至る。世尊に附帯表順させて羅漢を配置している。 
 それ故に諸佛や羅漢、そして鳥獣などを合わせて合計千体を超える。すべて石峰寺山上に羅列し、また山間渓谷に橋梁を架け、二十四橋を構え、実に壮厳に造り上げている。見る人すべてが驚嘆した。
 ちなみに塔所とは、石峰寺歴代の住持、千呆はじめ和尚たちの墓所であろう。いまも一般墓地とは離れ、少し低い地に一角を占める。開山僧・千呆禅師の遺骨も埋葬されている。

 そして拙門和尚は語る。願主の俊岳和尚は寛政八年(一七九六)に、若冲居士は同十二年に、密山和尚は文化十二年(一八一五)に、おのおの物故してしまった。そして経ること百余年の今日に至り、破戒僧および奸僧のために石造物は散乱し、往時の盛観を失ってしまった。現今は十画題の内、誕生佛、霊山会上、涅槃、塔所の四所のみを残すのみになってしまった。六百余個が在しているが、四百個以上が売却され、三都や地方の有数の邸園に翫弄物として散在してしまったのである。

 ところで石峰寺が明治前期にこれほど凋落してしまった原因のひとつは、寺の大きな収入源であった伏見船から得ていた運上が、幕府の瓦解とともに失われたためである。伏見の港を中心とする伏見舟は、淀川船すなわち過書船同様に、淀川や宇治川に就航した人荷運搬船である。伏見船の運上益金は、正徳四年(一七一四)に伏見の郷士・坪井喜六益秋が、幕府から与えられた免許権利の一部を寺に寄進したものである。淀川通船のうち、小回り船三十艘の運上を寺門香燈の資として、坪井が永代寄附したことによる。また福建省から長崎に来航する支那船からの香燈金収入も、伏見船以上に大きかった。
 そして明治初期、廃仏毀釈と上知令の嵐が、寺宝流失や堂の破却にも拍車をかけた。拙門和尚から破戒僧と名指された二代にわたる住職が、かつて俊岳と密山両和尚の勧進、若冲の奉仕や、たくさんの庶民の浄財喜捨でもって完成された石峰寺と石像らを、それこそ破壊してしまったのである。
 しかし、そのころに全国の宗教界を突如襲った激流を振り返ってみて、ふたりの和尚だけを責めるのは、あまりにも残酷であるとも思うのだが。
<2009年9月19日 南浦邦仁>
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